2005年12月21日(水) [過去の今日]
KDE用のCDイメージユーティリティで、NRG/BIN+CUE/MDF/CDI/CCD+IMG/C2D形式のCDイメージをISO形式に変換してくれる機能がある。なんかまれに役立ちそうな予感。
(@718)
2005年12月22日(木) [過去の今日]
2005年12月24日(土) [過去の今日]
#1 めりーーーーーくりすまーーす
2005年12月26日(月) [過去の今日]
Debianパッケージを作るドキュメントは、オフィシャルのものがあることは、巫女萌え先生もご存知のはず。しかしもうちょっと入門向けの文書は無いのか、という話であろう。
なぜそういう文書があまり無いかというのは、一つの理由が思い当たる。
まず前提として、RPMほど簡単ではないということ。RPMはMakefileやシェルスクリプト並に簡単なspecファイルが一つあればいいのに対し、debianパッケージはdebian/以下のたくさんのファイルを編集しなくてはならない。また、debian/rulesスクリプトなどは雛型を一つとっても案外複雑なMakefileである。
そして重要なのは、オフィシャルのドキュメントを読めば作れるくらいのレベルにある人は、ドキュメントを自ら書こうという事があまりない。 にわかな奴ほど語りたがるの法則 があるからだ。
つまり、Debianパッケージの作り方というものは、自分でドキュメントを書こうというくらいにわかな奴が産まれにくい状況なのだと、推察する。
(@254)
2005年12月28日(水) [過去の今日]
いろいろ言いたいこともあるけど、GPLなソフトウェアも作者の知的財産なんだという観点が抜けてるように思います。
例えばMySQLなんかはうまくやっていて、GPLなソフトウェアとして普及を計り、商用ライセンスでGPLの制限を逃れる方法を用意してますね。無料で使ってもらいつつ、フリーライダーを抑止する、実にうまい方法だと思います。BSDライセンスとのデュアルライセンスでは、こうはいかないでしょう。
お互いがおいしいところを得られるような方法であるべきだ、とは思いますけどね。
@ ソース公開が好まれる理由:
自分の浅い経験からで申し訳ないのですが、トラブルを起こすソフトウェアというのはたいていソースが非公開のものです。ソースがあれば直せますが、無いものは直せないという単純な理由でしょう。
そういうトラブルが起きるのは、Linux環境一つとってみても多様であるからでしょう。多様な環境に一つのバイナリだけで対応するのは難しい、かといって多様な環境すべてに対応したバイナリを供給するだけのリソースは無い。そこらへんが問題なんだと思います。
しかし、Linux/UNIX環境から多様性を奪ってしまっては、大きな魅力が失われることにもなるでしょう。何か、上手にやれる方法があるといいんですけどね。
(@295)
#2 PIPS on sarge
エプソンのプリンタPX-G900をsargeマシンに接続、PIPSドライバをCUPSにインストールすると、うまく印刷されない。
どうやらこの原因はPPDファイルのインストールにある模様。元のppdファイルと比べてみると、/etc/cups/ppdのppdファイルは、A4_AUTOとなるべきところがA4になったりしている。んー、どういうことだろう。
(@376)
#3 Sage on Firefox
2005年12月29日(木) [過去の今日]
伝わらない話になっちゃってすみません。
もちろんGPLが万能であるとは思いません。私が言いたいのは、GPLで自分のソフトウェアをライセンスする側の視点でも考える必要はあるはずだ、ということです。その視点を抜いてGNUは宗教だと言い切ってしまうのは、乱暴に聞こえてしまうのです。
もちろんソースを非公開にしておかなくてはならないようなプリンタドライバの受け皿となるべきGhostScriptやCUPSがGPLであるがゆえに、プロプライエタリなドライバが供給されないという事が事実であるなら、それは立派に批判に値する *1 とは思います。そういう意味ではLinuxも非GPLドライバを組み込むための手段を用意しておいてくれてもいいのかもしれませんね、MySQLみたいにデュアルライセンス形式とかで。
以下、せっかくご返事いただいたので、ポイントを個別にやります。
@ Linux ではない、 GNU/Linux と呼べ:
これはユーザランドがGNUシステムそのものなのだから、妥当な意見ではないでしょうか。GNUはプロジェクト名でもあり、組織名でもあり、OSの名前でもあるのですから。
また、Linus Torvalds氏はGPLを盲信してもGNUを信用してもいないと思います。そうでなければ、LinuxのCOPYINGファイルの冒頭で
Also note that the only valid version of the GPL as far as the kernel is concerned is _this_ particular version of the license (ie v2, not v2.2 or v3.x or whatever), unless explicitly otherwise stated.
と、GPLの後継バージョンが適用されないことをわざわざ明言したりはしないでしょう。
@ 松下vsジャストシステム事件:
これが批判されたのは特許の内容があまりにもショボすぎた上に、(たとえ常套手段にしても)本来侵害してるはずのMSではなく、SotecやJustSystemをターゲットにした弱いものいじめ的な側面があったからでしょう。
実際、知財裁判所では松下が敗訴してますよね。これはこれで正しかったのだと思います。
ソフトウェア特許が悪だと言われるのは、著作権との二重保護や、ソフトウェアのライフサイクルに比べて保護期間が長すぎる事なども原因だと思います。範囲が不明確になりがちであることももちろん重要でしょうけども。
あと、根拠レスな特許に対する意見というのは、特許制度自体がやたらに複雑であることにも起因してると思います。複雑すぎる制度は理解されないですから。そういう私自身も、特許をよく理解してませんし、今使ってるオープンソースのソフトウェアが特許で使えなくなるのはおもしろくない、というくらいの理解しか無いかもしれません。そういう人は実際に多いでしょうね。
@ GNUは模倣しかしない:
そもそもGNUはUNIX互換のOSを作ることを目標にしてたので、新規性・進歩性が無いのは当然だと思います。今、あらかた目標を達成したところで、どういうプロジェクトが出ているか、出てくるか、というのは一つ注目に値するでしょう。
@ 他人の知的財産への敬意:
これの視点がもっとも重要な話だと思います。GPLなソフトウェアを利用する側だけが知的財産をもってるわけじゃなく、GPLなソフトウェアそのものも誰かの知的財産なわけです。GPLでライセンスされたソフトウェアが、なぜGPLでライセンスされてるのか、それを考える必要があるということです。
GhostScriptにしても、GPLだけでライセンスされてるのではなく、AFPLでもライセンスされてます。プリンタメーカーの協力が得られないのは、GPLのせいだけじゃないことはこのことからだけでも明白でしょう。
たぶんここに特許問題が絡んでるからわかりにくいのかと思います。
もちろん、特許を取得してる側からすれば、自分の発明が勝手に使われるのは許されないことでしょう。しかし、自分が苦心して書き上げた著作物が、サブマリン特許で特許料を請求されてしまうということも、本質としては同じではないでしょうか。
本当に新規性・進歩性がある特許なら、そんなことが日常的に起きるはずもないでしょう。ですが、現実には毎年何度かはニュースになるくらい起きています。そのような事件を起こす輩が、他人の知的財産に敬意を払ってるように見えないから問題視されるのでしょう。
悪いのは特許でもGPLでもないのではないでしょうか。特許やGPLの使い方が悪いだけではないでしょうか。そして、その悪い使い方の事例だけを見て、特許を無くしてしまえと言ってみたり、GNUは宗教だと言ってみたりするのも、本質的に同じものではないでしょうか。
(@663)
2005年12月30日(金) [過去の今日]
以前書いたuim.elの感想 を作者さんが見てくださってた模様。
ふむ、やはりuim.el側ではどうにもならない問題が山積みってことですか。俺にCannaのソースを読みこなすだけの力(もしくは時間)があればいいんだが……。
モードラインの[あR]の位置はNEmacs以来の伝統的な左端が落ち着くと言えば落ち着くんだけども、難しいのかなあ。
(@345)
独占したい時はGPLに触れてはならない、自由が欲しい時はプロプライエタリに触れてはならない。どちらも反社会的な行動だとは思わないんですけどね。両方がうまく共存できる環境が一番ユーザーにとってもメーカーにとっても幸せなんじゃないでしょうか。
人はその時々によって、自由が欲しいときも、お金や機密が欲しいときもあるでしょう。どちらも選べる状況が一番いいでしょうし、GPLは自由のために自由を束縛するライセンスですから、自由が欲しいときには強力な武器になるでしょう。同様に、お金や機密が欲しいときに使える強力な武器も必要で、それはすでに法律という武器があります。これらの武器を使うことを選択してはいけないとは、どうしても思えないです。もしそれがあまりに強力すぎる武器であるなら、銃器や刃物と同様に法律で使用を制限する運動をするべき *1 でしょう。
私が思うに、どちらかを排除しようとすると、それは反社会的になるかもしれません。GPLのソフトウェアも、必要があればGPL以外でライセンスしてもらえるように交渉するくらいのことはあってもいいでしょうし、その逆があってもいいでしょう *2 。 むしろGPL以外では絶対にライセンスしないと言われると困るので、そういうのは悪い意味で信者でしょうし、相手にはしたくないですね。そういえばGNUの成果物をGPL以外でライセンスしてくれるように交渉した企業とかは話を聞かないんですが、誰もやってないんですかね。思想は思想として、金銭的メリットがあるなら充分交渉可能だと思うんですけども。GhotstScriptにしても、プリンタメーカーがソースコードの開示義務の無いライセンスで供給してもらい、ドライバとともにバイナリだけで配布するという道もあったんじゃないかと思います。もちろん、それだけの手間をかける価値がなかっただけかもしれませんが。
こちらも繰り返しになりますが、GPLのソフトウェアも知的労働の結果です。お金ではなく自由という対価を得たいだけのことでしょう。そして自由を取るかお金を取るかは、その時々の状況と重さ(具体的には金額)のバランスによるだけのことでしょう。お金で買えない自由なんてものは、そう多くないのですし。だからこそ、人は自由に憧れるのかもしれません。
(@359)
2005年12月31日(土) [過去の今日]
非常にすばらしい洞察(+1)だと思うので引用。
自由を確保するなら、生産したソースコードそのものの自由が確保されればそれで良いのではないでしょうか。
そのためには、業務ソフトウェア生産現場と同様、先行技術調査をして、既存の特許に抵触しないソースコードを生産し、BSDLでリリースすれば良いのではないでしょうか。
社会のルールに適合した、自由に利用可能なソースコードです。何故、生産したコードを利用する開発者のコードの開示まで要求するのでしょうか。
何故、既存の特許権の侵害までをも自由に含めたがるのでしょうか。
これが理解不能です。
そう、自分の作った分の自由を確保するためには、BSDライセンスで充分でしょう。これはまさしくその通りだと思います。
ではBSDライセンスでは不十分な場合とは何か。それは「フリーライダーを許容したくない」と作者が思ったときだと、私は考えます。
BSDライセンスはフリーライダーも許容するという意味で、真に自由なライセンスであると思います。ですが、それを快く思わない作者もいる。そういう作者のために、BSDライセンスよりも多少自由を制限するライセンスがあるというのも、それはそれで非常によいことだと考えています。
「ライセンスは何選ぼう?」 という文書を書いたことがありますが、ここで挙げたArtisticライセンスはGPLとはまた別の角度からフリーライダーを制限しようとしています。それがArtisticライセンスの特徴とも言える「単体販売禁止」で、製品の一部として添付するのはかまわないがそのソフトそのものを販売してはいけない、という条件ですね。これによって売るだけのフリーライダーを抑止することができる(と少なくともライセンスを定義した人は考えてる)わけです。フォントのライセンスなどには適してるかもしれません。
GPLの場合は「改変して売る」フリーライダーを抑止できる、と言えるでしょう。先日、 どこぞのフリーウェアを販売してた企業が契約終了後も改変したものを売っていたとかいう話題 がありましたが、これもGPLならこのような事態にはならなかったでしょう。GNUのサイトにある文書をみると、フリーソフトを仕事の道具として利用してる場合、使いながら不満な点やバグを修正したユーザーが、その雇用主によって改変版を独占されないようにしたい、というシーンを想定してるようです。せっかく改良点を見付けてもらったのに元のソフトにマージできなくされるのは、(雇用主はともかく)ユーザーにとっても開発者にとっても不幸である、ということですね。実際にviなどはそうやってAT&Tに搾取されてしまったあげく、nviという互換ソフトを作者自らが書き直すはめになっていますね。これもGPLなら、ということなのでしょう。
雇用主からすれば仕事中に金にならない作業をされるのはたまらん、ということなのでしょうが、実際に仕事をしてるプログラマからすれば売りものではなく道具として使ってるソフトまで雇用主に独占される理由は無いし、道具の手入れも仕事のうちだ、ということでしょう。
社会のルールというのは明文化された法律のことだと思います *1 が、法律の制定は現実から数歩遅れているものです。必ずそのすき間をついた攻撃がやってくるでしょう(viのように)。それらと闘争するための武器は、少なくともその存在を肯定できないものではないと思います。
フリーライダーをどこまで許容するかは作者自身が判断すればいいことでしょう。しかしながら、GPLがその特性ゆえにフリーライダーを抑止するつもりで自分がフリーライダーになっていないか、という批判はあって当然だと思います。
ですが、そこはあくまでバランスの問題であって、GPLの存在そのものの問題ではないと、私は考えています。今度のGPL改訂作業で逆フリーライダー度があがるようであれば、それは真向から批判すべきでしょうし、Linuxのように後継バージョンが適用されないよう、各所に呼びかける必要もあるかもしれません。
まあ、特許についてはよくわからないので、何とも言えないのですけども。mpeg2ファイルが取り扱いにくいのは困ったものではあります。
(@545)
#2 暮れ暮れ
今年も終りか。そんな実感が毎年小さくなるばかりだな。
昨今積み残しが多い気がするが、今年は特に積み残しが多い。年の暮れだという実感が無いのはそのせいだろうか。
来年はやりたいプロジェクトのリストアップとプライオリティ付け、そして収入源の確保がToDoだな。作りかけや作りたいソフトウェアもたくさんあるし、書きたい文書もたくさんある。読みたい本も、やりたいゲームもいっぱいある。一つの人生ですべてをこなせるか不安になるくらいだ。
もしかして、これは幸せなことなんだろうか。
(@655)
うむ、確かにそのとおりだ。何かをやるより何かをやめることのほうが何倍も難しい。俺も何かをやめた方がいいのかもしれんが、相当いろんなことをやめてきてはいるんだよな。まだまだ減らさないといけないのかなあ。しかし、これ以上何を減らそうか。
(@760)