2005年12月30日(金) [過去の今日]
独占したい時はGPLに触れてはならない、自由が欲しい時はプロプライエタリに触れてはならない。どちらも反社会的な行動だとは思わないんですけどね。両方がうまく共存できる環境が一番ユーザーにとってもメーカーにとっても幸せなんじゃないでしょうか。
人はその時々によって、自由が欲しいときも、お金や機密が欲しいときもあるでしょう。どちらも選べる状況が一番いいでしょうし、GPLは自由のために自由を束縛するライセンスですから、自由が欲しいときには強力な武器になるでしょう。同様に、お金や機密が欲しいときに使える強力な武器も必要で、それはすでに法律という武器があります。これらの武器を使うことを選択してはいけないとは、どうしても思えないです。もしそれがあまりに強力すぎる武器であるなら、銃器や刃物と同様に法律で使用を制限する運動をするべき *1 でしょう。
私が思うに、どちらかを排除しようとすると、それは反社会的になるかもしれません。GPLのソフトウェアも、必要があればGPL以外でライセンスしてもらえるように交渉するくらいのことはあってもいいでしょうし、その逆があってもいいでしょう *2 。 むしろGPL以外では絶対にライセンスしないと言われると困るので、そういうのは悪い意味で信者でしょうし、相手にはしたくないですね。そういえばGNUの成果物をGPL以外でライセンスしてくれるように交渉した企業とかは話を聞かないんですが、誰もやってないんですかね。思想は思想として、金銭的メリットがあるなら充分交渉可能だと思うんですけども。GhotstScriptにしても、プリンタメーカーがソースコードの開示義務の無いライセンスで供給してもらい、ドライバとともにバイナリだけで配布するという道もあったんじゃないかと思います。もちろん、それだけの手間をかける価値がなかっただけかもしれませんが。
こちらも繰り返しになりますが、GPLのソフトウェアも知的労働の結果です。お金ではなく自由という対価を得たいだけのことでしょう。そして自由を取るかお金を取るかは、その時々の状況と重さ(具体的には金額)のバランスによるだけのことでしょう。お金で買えない自由なんてものは、そう多くないのですし。だからこそ、人は自由に憧れるのかもしれません。
(@359)