2006年12月12日(火) [過去の今日]
#1 シンポ後チャット
昨日の夕方、どうにもだるくて仕事が手に付かなかったので、IRCで紹介されてた 著作権保護期間の延長問題を考える国民会議第一回シンポジウム をの生中継ストリーミングを聞いていた。ちょうどウェブチャットが設置されてたので、なんとなく参加してわいわい言いたいこと言ってたのだが、参加者の中にログをまとめてくださった有志がいらっしゃるので紹介しておく。
エンドユーザーの見た著作権: 国民会議シンポジウム後のチャットにて──
俺以外の方はまじめに著作権問題を考えるblogなど運営されてて、俺の向いた方向いて書きなぐってるこのサイトのURIを一緒に並べられるのは非常に恥ずかしい気もするのだが、まあそれもフラット化のひとつだとでも前向きに捉えておいてもらいたい。
チャットの中で俺が言っている「一億総アーティスト」というのは、俺自身の悲願でもある。うまいへたを別にして、みんながみんな絵を書き詩を詠むような世界を俺は望んでいる。芸術なんてのはそんな高尚なもんじゃない。パクリだっておもしろければいいじゃないか。そういう風土があれば、親と子が共に詩を朗読し、アレンジし、オリジナルを作り、ネットで発表するような世界になると信じている。
そしてみんなが創作を楽しむようになれば、その中から世界へ羽ばたくような偉大なアーティストが産まれる。これは確率の話だ。母数が増えれば優秀な人材も増える。
それこそが知財立国を目指す道筋だと、俺は考えている。
(@197)
#2 時かけクロック
2006年12月14日(木) [過去の今日]
#1 perlとcpan
うーん、最近どうにもperlを書いてると、CPANにあるモジュールの使い方をたくさん覚えてるだけという気がしてくる。しかも数が尋常じゃない。
俺はperlを書いてるのだからperlだけ覚えればいいのか、というとそうでもない。perlの中にアプリケーションがたくさんあって、そのアプリケーションはそれぞれ使い方も目的も違ってて、毎回毎回そのアプリケーションの使い方を覚えて行く。そういう感じ。
いつから「perlが書ける」ということは「モジュールの使い方を覚えてる」ということになったのだろうか……。いや、俺がそう誤解してるだけかもしれないが。
(@095)
#2 ソフトウェアは「表現」か?
表現としてのソフトウェア という記事。
著作権で保護される代物なら「表現」なんだろうなあ。これを否定するとそもそも著作権でソフトウェアを保護するのがおかしいということになるわけで。
いや、それでもいいんだけどね。著作権以外の方法で保護するなりしないなりすればいい話。
(@195)
#3 輸出戻し税
輸出戻し税なるものがある らしい。で、これが何が問題なのかよくわからなかったのだが、 ようするに 最終販売業者にしか還付されない のが問題らしい。
しかし、最終販売業者ってなんだろう。売る相手が消費者か業者かという問題なのか? それってどこで区別するんだろ。アキバの店舗をぶらぶらしてると、一般消費者にまじってHDDなどをを大量購入してるスーツがいたりするのも見掛ける。アキバで安く買い込んで地方に販売してる個人や業者もいるだろう。
そう考えると誰が最終販売業者なのかわからなくなる。
もちろんこういうことは消費税導入の際に議論されてるとは思うのだが、俺にもわかりやすくそのへん解説してるところはなかろうか。そこが理解できないと、輸出戻し税も議論できないと思うのだが。
(@222)
2006年12月15日(金) [過去の今日]
#1 google協賛企業です?
なんかgoogleの協賛企業と名乗ってアフィリエイトだなんだとやってる所がうろちょろしてるみたいね。個人店舗回りしてるようで。
会費集めて云々とかいう話だが、まあまちがいなく詐欺だろうなあ。数年後に大規模な詐欺事件になりそうな予感……。まあその前にしょぼーく落ちそうだけど。
(@310)
#2 喪男の哲学史という本があるらしい
喪男の哲学史 という本。
序章をPDFで配布してるので読んでみたのだが、爆笑してしまった。ものすごいこじつけでblogの非モテ界隈の議論を哲学に結びつけている。こじつけなんだが、それがまたおもしろい。
これはちょっと読んでみたいなあ。
しかし、この本の定義によると俺も喪男になっちゃうなあ。そういう自覚はまったく無いし、恋愛に関してはごく普通だと思うのだが……。
……相手に恵まれただけですか、そうですか orz
(@542)
#3 捨てちまえ、こんな国。
winny裁判もおととい地裁での判決が出てたのだが、まだ判決文を見てない。ちと検索してる暇がないせいもあるんだが。
ま、ひとつ言えるのは、鉄道を作れば飛脚が困るから反対するのは当たり前ってことですな。それも飛脚がそれなりの権力を持っちゃってたら、鉄道を作るのは社会的損失とか言い出すのは当然のこと。
ピンとこないでしょう。それも当然。飛脚なんて仕事はもう無いんだからね。でも飛脚は自分の未来のために、戦わざるを得ないんですよ。たとえ文明文化の発達を阻害してでもね。
官公庁もそうだけど、無駄なコストをかけることによる雇用創出ってのはあるもんで。それで食ってるやつらはそりゃ反対するわなあ。
で、それを犯罪とまで言っちゃうのはどーよって話なんだが。
まあコスト削減って言葉に無縁な人たちにかまってられるほど暇でもないわけで。どこぞのWeb2.0企業みたいに日本見捨てちゃってもいいわけで。
いいんじゃないの。滅びたい人たちは滅べば。こっちはこっちで好きにやろうよ。リミックスもマッシュアップも俺らが好きにやればいいじゃん。滅びたい人たちに構うことなんかない。
日本なんて捨てちまえ。
(@740)
2006年12月16日(土) [過去の今日]
#1 ユニバレとユニクロ迷彩
ユニクロだとばれることらしいのだが、なかなか面白いことを言う人がいるもので。 ばれて困るかどうかはシチュエーション次第だと思うが、確かにユニクロの広告そのまんまの格好してる奴はたまにみる。あれはさすがにちょっとどうかと思う。せっかくバリエーション豊かなユニクロなのだから、もう少し考えればいいのに。
それはそうとて、そんなことをチャットで話していたら、「ユニクロは都市迷彩だ」という人がいた。これも至言。確かにユニクロファッションは良くも悪くも平均的で目立ちにくい。
……つまりは日本でスパイ活動してる奴もユニクロを着ているっ?!
って、普通スパイするようなやつらはスーツ着てるかな……。はっ! 紳士服の青山とかコナカも都市迷彩なのか?!
(@631)
@ 価格破壊:
そういえば、先日親戚の子供たちと話してる時、色気づいた中学生の男の子が「7000円もするジーンズはいてる」なんて話があった。
俺は「へえ、安いなあ」と思ったのだが、今の子供たちの感覚では「高い」のだそうだ。
俺が中学生くらいのころは、田舎だということもあろうがジーパンは1万円くらいするもんだった。それが普通だと思ってたのだが、考えてみればユニクロ他低価格衣料品販売店のおかげでジーンズは2000〜3000円程度が普通になってるのだ。そういう時代に確かに7000円のジーンズは高いと言われるのは当然だろう。
こういう価値の破壊を実行したユニクロはすごいと思う。心底尊敬する。
(@639)
#2 ナイト・オブ・ロードス
昔コンプティークという雑誌で水野良のエッセイの中で、ナイト・オブ・ロードスというカクテルのレシピが掲載されてたことがあった。いつか飲みたいと思ってたのだが、ウェブ上でもそれらしき情報が見当たらない。
とかいってたら、 カクテルレシピサイトにあった 。
8、Knight of Lodoss(ナイト・オブ・ロードス) 提供:Kouga
タンカレー 30ml、ピーチツリー 10ml、スィートベルモット 10ml、ライムジュース 10ml
強くて、苦くて、甘い。強さと優しさを併せ持った騎士のイメージ
シェイクしてグラスに注げば完成。
とのこと。
これを見つけてくれた 巫女萌え御大 に感謝。
(@759)
2006年12月18日(月) [過去の今日]
#1 超訳はいいがそこに何があるのか?
上司への説明は戸田奈津子ばりの超訳で という記事。
まあ言いたいことはわかる。俺も超訳はよくやる。いかに素人でもわかりやすく説明できるかというのは、俺にとってもチャレンジしがいのあるジャンルだし、積極的に実行している。そのためなら超訳でも比喩でも何でも使う。
が、それはあくまで彼らの計算機に関する知識レベルに「上げ底」をして、本来しなければならない議論をするためだ。変なところでつまづかれて議論にならないようではお話にならない、ただそれだけだ。
だからこそ、
『文芸春秋2006年8月号』にあった梅田望夫さんのインタビュー記事で、若い読者が十冊まとめ買いして職場の上司や親に「これが私の考えていることです」と配ったとありました。親だったらともかく、私が上司なら激高してこう言うでしょう。
「上司に言いたいことがあるなら、自分の言葉でまとめてこい!」と。
これに対しては「ふざけるな!」と言いたい。
なぜ技術用語は超訳するという無礼を推奨しておきながら、「日本型ヒエラルキー」に対する無礼は戒める? 通じ合えるならなんでもやるというなら、俺は堂々と本を渡すという道も考慮する。
これがサラリーマンの社会に対する無礼に繋がってることに何故気付かない?
上司だか取り引き先だかのお偉いさんに頭を下げるために通行人の邪魔になってるサラリーマンをよく見掛ける。お偉いさんの席を確保するために他の乗客の迷惑も顧みないスーツどももいる。
それと何が違う?
社会は会社ではないのだ。会社の中の礼儀にしか気を使えない人間は、会社人であって社会人ではない。
もちろん自分で何もせず、本を渡して終りにするようじゃ怒られるのもしかたない。だが、自分がどれだけの言葉を重ねようとも一冊の本にかなわない事例などいくらでもある。
本当にわかり合うこと、通じ合うことのためにモラルを破壊するなら、そこに例外を堂々と持ちこむんじゃない。
せめて、この部分はこう直すべきだ。
『文芸春秋2006年8月号』にあった梅田望夫さんのインタビュー記事で、若い読者が十冊まとめ買いして職場の上司や親に「これが私の考えていることです」と配ったとありました。親だったらともかく、上司を相手にこれはやばいかもしれません。
「上司に言いたいことがあるなら、自分の言葉でまとめてこい!」などと怒られてしまいかねません。
本を上司に渡して「これが私の考えです」といい「読書」を強制するのは、日本社会においては無礼で非礼だとされています。外資系のコンサルティング会社は違うのかも知れませんが、中小企業にいまだに多いガチガチの「日本型ヒエラルキー」の存在する会社なら言語道断の振る舞いです。
そう、俺は例外を持ちこむなと言ってるわけじゃない。それが例外であることを自覚しろと言ってるのである。
必要悪を悪だと認識せずに必要性を訴える事こそが、悪そのものなのだから。
(@183)
#2 最大接続数を増やして速くなったと喜ぶ人々、再び
またこういうバカなことをする輩 が現れた。
2年近く前の記事 でも書いたのだが、肝心の情報が当時俺が噛みついたサイトのコメント欄にあったりして、さらにはそのサイト消えちゃってる *1 ので、ここに少しまとめておこう。
まず考慮にいれて置かねばならないのは、RFCで定められたHTTPにおいて、同時接続数が明記されてるということ。
- HTTP/1.0
- 同時接続数は4つまでと慣習的に定められている。
- HTTP/1.1
- 同時接続数は2までとRFC2616において定められている。その代わりpipeliningという手法が定義されている。
そしてこれが何故制限されてるかというのは、
- 接続をオープンするのはサーバに負荷がかかる
- ゆえに接続を同時にオープンできる数には限りがある
- 1人が多数の接続を同時にオープンすると、他の人が繋げなくなる
という、わかってる人には至極当り前のこと。
それから、pipeliningに関しては、
- pipeliningは1つの接続で複数のリクエストをやりとりするための手順
- かといってたくさんのリクエストを投げればその分ポートの占有時間も長くなるから迷惑なのは同じ
- だいたい4〜8程度にしておくのが無難。Firefoxは4、Operaは8がデフォルト。
まずIEに関しては、 Microsoftのサポート情報 が詳しい。同時接続数の変更法とそれを行ってはいけない理由が書かれている。
Firefoxに関しては、pipeliningがデフォルトでオフになってる(一部のサーバがまだ未対応のため)ので、これをオンにする程度は問題無い。
結論としては、IEでこのへんのチューニングをするのはNG。Firefoxの場合は以下のような設定にとどめること。
user_pref("network.http.pipelining", true); user_pref("network.http.pipelining.maxrequests", 8);
HTTPまわりの詳細は [Studying HTTP] Persistent Connections が詳しい。ウェブサーバ管理者は、mod_limitipconn を使って対策するべし。
以上。
(@213)
@ 追記:
このあと書いた ごめん、それはちょっと書き方悪かった と 俺じゃないけど俺に言われてるも同然なので反応してみる も参照のこと。
@ 直してもいいんだけど:
直しはじめるときりが無いっつーか。とりあえず現状でヨロ。
2006年12月19日(火) [過去の今日]
#1 ごめん、それはちょっと書き方悪かった
about:configの設定 という記事。
pipelining は「1つの接続で複数のリクエストをやりとりするための手順」 従って「たくさんのリクエストを投げればその分ポートの占有時間も長くなるから迷惑」
ってのはね、もうひとつの側面があるんです。ちょっと慌てて書いてしまったのでそのへん誤解を招いたのは申し訳無い。
んっと、確かにたくさんのリクエストを投げてポートを長時間占有されるのは迷惑なんだけど、これってどっちみっち1つの接続の中の話なわけ。
つまりどういうことかというと、maxrequestsってのは「1つのページを開いたときに同時にリクエストするCSSやらJSやら画像やらの総数」なわけです。
ようするに1つのページに10個も20個も画像やらCSSやら置いとくページ構成がそもそも悪いといえば悪いわけです。
とりあえずFirefoxってかGeckoに関しては、2年前に似たような記事を書いたときに、オフィシャルバージョンではmaxrequestsの最大値は8になってることが指摘されてます(すっかり忘れててこれもごめん)。こんなとこまでいじってrebuildして使ってるユーザーはほとんどいないだろうし、Firefoxに関しては特に問題無いと思います。
もちろんFirefoxでも最大接続数をいじったりできるんだけどね。これはもちろんNG。
@ 特に迷惑を被ってる人々:
まあ素直に言うと今はmod_limitipconnあるし、クライアント側でどうこうされようともサーバ側で対処してるからどうでもいいっちゃいいわけですよ。
でもちょっと考えたらわかることだけど、mod_limitipconnで制限されると困る人ってのはいるわけ。
IRCでも指摘されたんだけど、大学や会社で何十人もの人が1つのIPアドレスをNAPTで共有してるっていうシーンは珍しくないわけ。困るのはこの人ら。
だってそうでしょう、IPアドレスあたりの接続数をサーバで制限されてたら、同時に同じサーバを見に行く人が隣に何人かいるだけで繋がらなくなっちゃう。具体的にはなかなかページが開かなかったり、503エラーがでたりする。
サーバ側としては対策せざるを得ない以上、迷惑を被るのはこういう人たちなんだよね。
(@208)
#2 blogのコメント
2006年12月20日(水) [過去の今日]
#1 俺じゃないけど俺に言われてるも同然なので反応してみる
へい、まったくそのとおりでございます orz。
まあ2年前にそこらへんも読んだ覚えがあるんだが、shouldんとこをmustに脳内変換して記憶してたかもしれない。
急いでたんでRFCの当該部分探して来る手間省いちゃったのも事実です、ごめんなさい。
あとで当該記事書き直すかねえ。
(@232)
#2 Firefox 2.0.0.1 released
#3 コミュニケーション能力と空気読み
はてなキーワードの「非コミュ」という項目 を読んで思ったのだが、言われてみれば確かにコミュニケーション能力などというのは主観的な話である。コミュニケーションが成立するには、双方の合意が必要だからだ。その合意の量が多ければ多いほど、コミュニケーションはスムーズになる。
基本的な合意はもちろん言語だが、いわゆる「空気を読む」というのも合意あってこそだ。言い換えれば雰囲気を感じ取るということなのだろうが、その雰囲気を知るにはある程度の慣れが必要だ。はじめて行った場所では雰囲気がわからずおろおろしてしまう、なんて経験は誰にでもあるだろう。その慣れとは、その場所での合意を知るということなのである。
例えば技術者のコミュニティでの初心者の振舞いなど見てると、「空気が読めてない」という状態を観察できる。2chで唐突にスレッドを立ててしまう人、いわゆる「半年ROMれ」などと言われてしまう人も同様。
しかるに、コミュニケーションが成り立たないという場合、その原因はどちらかがその場でのなんらかの合意を知らないという事に尽きる、ということになる。
その場での合意というのは「みんなが知ってる」ものだから、自分はその場に溶け込んでるという意識がどこかにある。ゆえに「みんなそう思ってる、違うのはお前だけだ」などというようなせりふが簡単に出てくる。帰属意識の源泉はここいらへんであろう。
ということは、である。
「コミュニケーション能力が重要だ」などと言って求人を出してる企業というのは、結局「同族」を求めてるということになる。自分たちと同じ意識を持ってる、価値観を持ってる、センスを持ってる。そういう人材が欲しいということなのである。
だいたいこういうことを言うと「ホウレンソウが云々」とか言いはじめる人がいるんだが、それも同じこと。報告も連絡も相談もある程度ふるいにかけなければ、数が多すぎてどうしようもないだろう。そのふるいの穴の大きさがだいたい同じでなければ、やはりコミュニケーション能力が足りないなどと言われてしまうのは目に見えている。そしてその穴の大きさを決めるのは、やはりその場での合意なのである。
似たような合意を積んで来た人同士は、コミュニケーションがうまくいく。そうでなければうまくいかない。バックグラウンドが似通ってるかどうかで、そこは決まる。
だとすれば、コミュニケーション能力を云々などと言うのは愚かだ。異物をいかに消化し、自分たちに組み入れていくか。それが組織力というものではないだろうか。その組織力の無さを相手の能力のせいにしてしまえるという点において、コミュニケーション能力という言葉は害悪でしかないのではないか?
俺は、そう思うのである。
(@420)