2006年12月18日(月) [過去の今日]
#1 超訳はいいがそこに何があるのか?
上司への説明は戸田奈津子ばりの超訳で という記事。
まあ言いたいことはわかる。俺も超訳はよくやる。いかに素人でもわかりやすく説明できるかというのは、俺にとってもチャレンジしがいのあるジャンルだし、積極的に実行している。そのためなら超訳でも比喩でも何でも使う。
が、それはあくまで彼らの計算機に関する知識レベルに「上げ底」をして、本来しなければならない議論をするためだ。変なところでつまづかれて議論にならないようではお話にならない、ただそれだけだ。
だからこそ、
『文芸春秋2006年8月号』にあった梅田望夫さんのインタビュー記事で、若い読者が十冊まとめ買いして職場の上司や親に「これが私の考えていることです」と配ったとありました。親だったらともかく、私が上司なら激高してこう言うでしょう。
「上司に言いたいことがあるなら、自分の言葉でまとめてこい!」と。
これに対しては「ふざけるな!」と言いたい。
なぜ技術用語は超訳するという無礼を推奨しておきながら、「日本型ヒエラルキー」に対する無礼は戒める? 通じ合えるならなんでもやるというなら、俺は堂々と本を渡すという道も考慮する。
これがサラリーマンの社会に対する無礼に繋がってることに何故気付かない?
上司だか取り引き先だかのお偉いさんに頭を下げるために通行人の邪魔になってるサラリーマンをよく見掛ける。お偉いさんの席を確保するために他の乗客の迷惑も顧みないスーツどももいる。
それと何が違う?
社会は会社ではないのだ。会社の中の礼儀にしか気を使えない人間は、会社人であって社会人ではない。
もちろん自分で何もせず、本を渡して終りにするようじゃ怒られるのもしかたない。だが、自分がどれだけの言葉を重ねようとも一冊の本にかなわない事例などいくらでもある。
本当にわかり合うこと、通じ合うことのためにモラルを破壊するなら、そこに例外を堂々と持ちこむんじゃない。
せめて、この部分はこう直すべきだ。
『文芸春秋2006年8月号』にあった梅田望夫さんのインタビュー記事で、若い読者が十冊まとめ買いして職場の上司や親に「これが私の考えていることです」と配ったとありました。親だったらともかく、上司を相手にこれはやばいかもしれません。
「上司に言いたいことがあるなら、自分の言葉でまとめてこい!」などと怒られてしまいかねません。
本を上司に渡して「これが私の考えです」といい「読書」を強制するのは、日本社会においては無礼で非礼だとされています。外資系のコンサルティング会社は違うのかも知れませんが、中小企業にいまだに多いガチガチの「日本型ヒエラルキー」の存在する会社なら言語道断の振る舞いです。
そう、俺は例外を持ちこむなと言ってるわけじゃない。それが例外であることを自覚しろと言ってるのである。
必要悪を悪だと認識せずに必要性を訴える事こそが、悪そのものなのだから。
(@183)