2006年12月20日(水) [過去の今日]
#1 俺じゃないけど俺に言われてるも同然なので反応してみる
へい、まったくそのとおりでございます orz。
まあ2年前にそこらへんも読んだ覚えがあるんだが、shouldんとこをmustに脳内変換して記憶してたかもしれない。
急いでたんでRFCの当該部分探して来る手間省いちゃったのも事実です、ごめんなさい。
あとで当該記事書き直すかねえ。
(@232)
#2 Firefox 2.0.0.1 released
#3 コミュニケーション能力と空気読み
はてなキーワードの「非コミュ」という項目 を読んで思ったのだが、言われてみれば確かにコミュニケーション能力などというのは主観的な話である。コミュニケーションが成立するには、双方の合意が必要だからだ。その合意の量が多ければ多いほど、コミュニケーションはスムーズになる。
基本的な合意はもちろん言語だが、いわゆる「空気を読む」というのも合意あってこそだ。言い換えれば雰囲気を感じ取るということなのだろうが、その雰囲気を知るにはある程度の慣れが必要だ。はじめて行った場所では雰囲気がわからずおろおろしてしまう、なんて経験は誰にでもあるだろう。その慣れとは、その場所での合意を知るということなのである。
例えば技術者のコミュニティでの初心者の振舞いなど見てると、「空気が読めてない」という状態を観察できる。2chで唐突にスレッドを立ててしまう人、いわゆる「半年ROMれ」などと言われてしまう人も同様。
しかるに、コミュニケーションが成り立たないという場合、その原因はどちらかがその場でのなんらかの合意を知らないという事に尽きる、ということになる。
その場での合意というのは「みんなが知ってる」ものだから、自分はその場に溶け込んでるという意識がどこかにある。ゆえに「みんなそう思ってる、違うのはお前だけだ」などというようなせりふが簡単に出てくる。帰属意識の源泉はここいらへんであろう。
ということは、である。
「コミュニケーション能力が重要だ」などと言って求人を出してる企業というのは、結局「同族」を求めてるということになる。自分たちと同じ意識を持ってる、価値観を持ってる、センスを持ってる。そういう人材が欲しいということなのである。
だいたいこういうことを言うと「ホウレンソウが云々」とか言いはじめる人がいるんだが、それも同じこと。報告も連絡も相談もある程度ふるいにかけなければ、数が多すぎてどうしようもないだろう。そのふるいの穴の大きさがだいたい同じでなければ、やはりコミュニケーション能力が足りないなどと言われてしまうのは目に見えている。そしてその穴の大きさを決めるのは、やはりその場での合意なのである。
似たような合意を積んで来た人同士は、コミュニケーションがうまくいく。そうでなければうまくいかない。バックグラウンドが似通ってるかどうかで、そこは決まる。
だとすれば、コミュニケーション能力を云々などと言うのは愚かだ。異物をいかに消化し、自分たちに組み入れていくか。それが組織力というものではないだろうか。その組織力の無さを相手の能力のせいにしてしまえるという点において、コミュニケーション能力という言葉は害悪でしかないのではないか?
俺は、そう思うのである。
(@420)