2002年08月02日(金) [過去の今日]
あちこちで話題になってて、うちのOpenSSHは大丈夫かなーとか思ってたんだが、うちのFreeBSDはp1ついてない3.4なので大丈夫のよう。でもdebianのはp1付いてるな……大丈夫だとは思うが。
(@14)
@ OpenSSHにトロイの木馬(/.-j):
こちらを見るとどうやら3.4p1だけじゃない模様。7月30〜31日にかけて改竄されたらしいので、その間にDLしたんじゃなければ大丈夫かな。
(@556)
2002年08月04日(日) [過去の今日]
#1 X起動せず
woodyがリリースされてsidがunstableらしくなってきたのか、突然Xが起動しなくなった。原因はマウスカーソルのフォントが消えてたようで、xfonts-baseをreinstallしてもダメ。しょうがないのでとりあえず、
$ cd /usr/X11R6/lib/X11/fonts/misc # cp cursor.pcf.gz-base cursor.pcf.gz # mkfontdir
で、起動するようになった。根本的な解決になってないけど、そこまでおっかけらられません(涙)
(@554)
2002年08月06日(火) [過去の今日]
#1 debian 3.0r0 雑感
ちょっとマシンが空いたのでインストールしてみた。我が家の実験機P2B-BマザーのマシンではCDブートせず、しばらく試せないでいたのだ。とりあえず初心に戻って基本的にエンター押すだけでインストールした。
CDブートしていきなりフレームバッファが立ち上がる。将来的なGUIインストーラへの布石だろうか。そしてすぐ言語選択。大量の言語に対応してるようで、日本語を探すのに苦労してしまった。日本語を見付けて選択。すぐに日本語で詳しい説明が出た。たまに文字が消えてるけど、まあご愛敬かな。デフォルトのカーネルはけっこうでかいようで、何も設定せずともrtl8139のNICくらいは認識しててくれた。デフォルトと言っても2.2.20-idepciというカーネルなのだが、idepciとか付かないカーネルもあるんだろうか。とりあえず/boot//config-2.2.20-idepciを読むと、けっこう初心者が扱いがちなRTL8139やvia-rhineが最初から組み込まれてる。インストール後に悩みがちなapmも組み込みだ。初心者を配慮したカーネル構成と言えるかもしれない。
しかし、ここまで多国語化されてて、リブート後の設定が英語というのも何か辛いものを感じる。惜しいなあという感じ。どうにかなる余地はあるのかな。
パッケージはtaskselを用いて、dselectは使わなかった。X window systemとdesktop environment、それにJapanese environmentを選んでインストール。CD以外のapt-lineはsecurity.debian.orgだけにした。すると時期が悪かったか、20M程のダウンロードを強いられた。ISDNには辛い。ここ数日大量のセキュリティホールが見付かってるから、しょうがないんだけど。パッケージのDLが終ると各種設定。初心者がよく突っかかるXの設定は実に簡単に済んでしまった。完全自動とは行かないが、ドライバとディスプレイの周波数、それから解像度と色数を選んだだけ。
そしてインストール完了。startxすると、何故かKDEが立ち上がった。desktop environmentってKDEの事だったのか? Gnomeを選ぶにはどうしたら良かったのだろう。さらにJapanese environmentを選んでるにも関わらず、ktermもcannaも入ってなかった模様。日本語まるきりでてきませーん。CDに収録されてなかったせいかなあ。とりあえずsudoとlanguage-envをインストールしてset-language-env。追加でこれこれのパッケージを入れろとの指示が出たので、コピペしてインストールしちゃおうとしたら、パッケージの間にカンマが入ってて手間だった。さらに指示されたパッケージのうち、mutt-jaは今の所使用できない、doc-linux-text-jaは消えてるという感じ。doc-linux-text-jaはメンテナと名称が変わって、doc-linux-ja-textになってる模様。ううむ、stableのパッケージとしてはちょっと辛いげ? そしてkinputによる日本語入力ができないと思いきや、localeが空っぽ。ちゃんと設定したはずなのだが、その時選んだデフォルトのlocaleがCだったのがいけなかったんだろうか。しょうがないのでdpkg--reconfigure localesを実行してlocale作り直し。さらにKDEで日本語が選べないなーとおもったら、kde-i18n-jaというパッケージが必要だった模様。むむう。
とりあえずそんなこんなで一応日本語出るようになった。スナップショットは
こちら 。
だがこれではさすがに見にくいので、フォントの設定をいじってみる事に。とりあえずは東風フォントをと思ったのだが、どうもデフォルトではTrueTypeフォントは使える状態になってない模様。さらにTrueTypeフォントのfonts.dirはどこにあるやら不明スギ。メインマシンのsidでは/var/lib/defoma/x-ttcidfont-conf.d/{TrueType|CID}をFontPathに入れてやれば良かったのだが、そのようなディレクトリはできてない。apt-cache show ttf-kochi-gothic-naga10してみたら、x-ttcidfont-confなるパッケージがSuggestに入ってた。これが無いと作ってもらえないのだな。ついでにxfs-xttもインストール。debconfからの指示を受け、/etc/X11/XF86Config-4のFontPathの"unix/:7100"となってる所を"unix/:7110"に書き換えて、再度startx。……って、フォント消えてるっ!!(汗) 文字がでねー。しょうがないのでとりあえず~/.kde/share/config/kdeglobalsをviでエディット。[Locale]の部分にある、ContryとLanguageをCに書き換え、三度startx。なんとかフォントはかろうじて見えたものの、日本語にする方法が見当たらず。どうもhelveticaのjisx0208なフォントが無いのがいけないっぽい? そしてフォントを変えようとしたのだが選べるフォントにkochiが無い。どういうこっちゃと思ったら、xfs-xttが起動してなかった模様。手動で起動させるのか……。
まあともかくこれでコントロールセンター > locale & languageでそれぞれ日本に設定し、Character setをjisx0208.1983に設定。さらにフォントをkochiにして、
こんな感じ になった。
うーむ、ちょっとテストのつもりが、けっこう手間取ってしまった。不慣れなKDEのせいもあるけど、もうちょっと詰めておいた方がいいような部分も散見された。それでもpotatoよりずっと進化してるんじゃないだろうか。初心者が導入でてこずる事の多い(らしい)debianだけに、ここまで来たのはすごいことだと思う。遅ればせながら、祝! woodyリリース!
@ おまけ:
ふと見るとフォントの設定の所に、フォントとアイコンのアンチエイリアスなるもの発見。これをオンにしてstartxしなおしてみると……はうう!! フォントがまた消えちゃったよう! TrueTypeフォントはアンチエイリアスできないのかー?! くう、みなさん気をつけてね(涙)
(@51)
@ おまけその2:
apm入ってるのに自動で電源切れんかった……。マザーの問題だろうか……。 (@250)
@ Gnome:
どうやらx-session-managerがKDEになってたためにKDEが起動してた模様。update-alternatives --config x-session-managerとしてgnome-sessionを選んでやればgnomeが起動する。両方インストールされちゃってたのだね。
それはいいのだが、ディスプレイマネージャに間違ってgdmを選んでしまったためにひどい目にあった。gdmはgnomeの一部なので、.xsessionを読まずにgnomeを起動してしまうようなのだ。だからいくらちゃんと設定してあっても日本語入力ができなかったりしてダメスギ。SessionというメニューでXsessionを選んでやれば.xsessionを読んでくれる。無いのが気になったので、一応 xrdb -merge ~/.Xresourcesというのも追記したが、ちゃんとkinput2による日本語入力ができた。
(@725)
2002年08月07日(水) [過去の今日]
面白いサイトだと思うのだが、table使いまくりで表示がおかしくなってるし、アルファベットがことごとく全角で読みにくい事この上ない。あまりに辛くて途中で放棄。内容がどんなに良くても書き方がおかしいと面白さまで消えてしまうというのは、なかなか悲しいものがあるね。そのうちスクリプトで修正してじっくり読もうかな。
(@20)
#2 MacOS X を導入してみたいなと妄想
まあ、まずはEmacsが動かないとならんから、Emacsを入れるだろう。ウィンドウ表示の都合からしてX window systemも入れとかないといけないな。どうせX入れるなら、ターミナルもX用のATermとか入れようかな。ファイル管理はbashとFDcloneが最強だよね。日本語入力はEmacsから使う事考えると、やっぱCannaだよなー。ブラウザはw3m、あとはもじらも使うか。メールはEmacsにWanderlust入れてっと。IRCもEmacsにirchat-pjを……って、OSXの意味無いじゃん。
やはりMacOS導入はありえないという結論に達するのであった。
(@31)
2002年08月08日(木) [過去の今日]
とのことなので、検索してみると確かに見付からない。まあ、GPLなので再配付に問題もなかろうし、俺のHDDに入ってた奴をアップロードしておこう。
http://www.misao.gr.jp/~koshian/shed/cfirchat.el.gz
(@855)
あの
山形浩生先生 が地域通貨に付いて書いてるとはまったく知らなかった。以前から友人にこれはいいぞと勧められている地域通貨だが、どうしてもうまくいくとは思えない。ごく小さなグループ等で流通させるのは面白い試みだと思うし、実際やってみてもいいなとは思っていた。しかしそれは通貨と言うよりはむしろ肩叩き券に近いような素朴なものになるのではないだろうか。地域通貨の紙幣が大きすぎる価値を持つようになれば、当然偽札等の悪徳を働く者が出て来るからだ。大きな価値を持つということは規模も大きくなるわけで、こういった不正を見抜くのは難しくなる。本物のお金と同じ問題を抱えるようになり、本物のお金にならざるをえなくなるわけだ。
表題の記事を読んでみると、やはり規模を大きくすれば普通のお金になってしまうと考えているようだ。リンクされている
子守クーポン の話はものすごく参考になる。何を言うとも、所詮通貨は通貨。その経済の仕組みというのは変わらないんだな。
(@994)
という検索ワードでトップにこのページが来るらしい。たぶん この日記 のことだと思うのだが、ここ三ヵ月分ほどindex化されてなかったので、検索しても見付からなかったろう。自動index化がオフになってた模様。探しに来てくださった方、申し訳ありません。 (@165)
2002年08月09日(金) [過去の今日]
著作権は特許問題とあわせて最近
でかいの たちとIRCで論議したのだけど、特許は、そしてたぶん著作権も、未来永劫人類の資産としてオープンに誰でもがアクセスできる為に作られた法律なんだと言う事らしい。そうでないと特許技術なんて一社が独占しちゃって墓場まで持っていかれちゃうからね。人類の資産として登録しておく代わりに、しばらくの間は独占してていいですよというのが法律の趣旨らしい。
いぬ が著作権なんて無くなればいいというのは、たぶんこういうことだよね。利権が云々ではなく、みんなが自由に著作物を楽しんで欲しいと。でも、誰でもちょっとは収入が欲しい。収入と自由にに楽しんでもらう事との矛盾。アーティストなら一度位それに悩む事があるのかもしれないね。
その矛盾の解決には、著作権が無くならなければならない。そしたら収入が無くなるじゃないかって思うかもしれないが、何もあらゆる著作権が認められてはいけないとは言ってない。ある程度時間がたったら消滅すればいいんだよ。実際、今の日本の法律では著作権は無くなる。著作者の死後50年たったらね。著作者が死んで50年たてば、誰もが自由にその作品に触れられる。特許の場合は登録日から20年だね。
もちろん、そういうわけだから問題ないなんてことはこれっぽっちも思わない。現代のように技術の更新ペースが早い中で20年なんて長すぎるし、著作者の権利を死んだ後50も守らなきゃならないなんてのはおかしいと思うよ。ようするに保護期間が長すぎるんだ。
たぶん、適正な保護期間というものを設定できれば、例の矛盾は解決する。特許は登録日から10年、著作権は著作者の死後20年ってところが妥当じゃないだろうか。著作権は著作者の遺族が生活する分も考えてあげないとかわいそうだしね。著作者がそれを望まなければ、それこそ著作権を行使して
山形浩生の遺言状 みたいなこともできるはずだ。
これで著作権に関するすべての問題が解決するわけではないが、これ以上の解決策はどうも思い付かない。少なくとも現状の保護期間が長すぎるのは確かだし、これだけでもなんとかして欲しいところだね。
(@0)
んー、反論なのかなんなのかいまいち理解に苦しむ。そこからリンクされてた 山形浩生の記事に対する反論 も同様なのだが、「私はわかっている」「あなたはわかっていない」という主張以外は何も読み取れない。まるっきり反「論」になってないのね。だいたい、
「理論が完璧じゃなければ動いてはいけない」
などとは誰も言ってないわけで、俺は単に「成功の可能性が見出せない」と言ってるだけ。
例の記事 も同様だと思われ。
このような誤読も甚だしいのだが、それ以上に、
まあ、どっちみち、こういうのは実際に自分が働いてお金を稼ぐ立場になったことが ないとわからないものだがな。
というこの意見もひどいもんだ。失礼極まりないのはもちろんだが、これはいわゆる論理の誤謬を呼び込む弁論術の一つであり、意見を言う資格を相手から奪い取ろうとする手法だね。相手の意見ではなく、人間そのものに向けられてるところがミソ。反論できなくても弁論に勝つことができるのね。おそらく、意識しないでやっているのだろう。その証拠に
何を見聞きしても、自分の中にそれがなければわからないものだ。
とも直後に述べている。ここの「それ」というのは理解の素とでも言うべきものだろう。1+1=2を知らない人間が二次方程式を理解できないのと同じで、1+1=2が理解の素になるわけね。ま、これは確かにその通りだ。ただ、前にも言ったけどまっ杖の記事は決めつけが多い。今回の決めつけは「体験」と「理解の素」を同一視してるところだね。ある体験が一つの理解の素を生む事が真だとしても、その一つの理解の素を生むのがその体験だけだとは限らない。ここにも論理の誤謬が見受けられるね。
(@208)
2002年08月10日(土) [過去の今日]
あんまし時間無いので短めに。
私は要するに、「こしあんはわかっていない」ってことだけを言いたかっただけだ。
とのことなので、俺の方に誤読は無かった模様。だが、
こしあんの返事は、「論理的に間違っているところを指摘して終わり」という構造 だ。 この構造自体が、私が先に言った「理論が完璧じゃなければ動いてはいけない」 ということをそのまま示しているんだ。
というのは見逃しがたい。人にものの良さを伝えようという時、根本的な誤謬があれば信じないのが当り前だ。誤謬に気付かず信じた結果が妙ちくりんな新興宗教の信者達なのだから。誤謬を気付かせないように人を説得するなら、それは新興宗教の勧誘活動と変わらない。
別段、完璧な論理じゃなければ信じないというわけでもない。情緒的な話の中にも真理は含まれている。しかし、どんな話の中にも、真理が含まれているのであれば、バックボーンに筋の通った論理が必ず存在しているものだ。バックボーンの論理に誤謬が含まれていれば、警戒するのは当然だ。それに情緒的理解と論理的理解は相互に補完しあう関係であり、どちらが欠けてもよろしくない結果になりがちである。
ああ、そうじゃなくて、ただ単にこしあんが「興味がないけど、とりあえずこう思う よ」っていうことで書いたのならばそれはそれでいい。 だとしたら、すぐ上の発言 は取り消す。
興味があって、うまくいきそうなら地域通貨を用いた活動を始めたいと思ってる。これは高みの見物でもなんでもない。実践のための考察だ。そのためにはメリットとデメリットと展望を正しく理解せねばなるまい。ここに論理は不可欠だ。人を巻き込む活動だけに、慎重にならざるをえないのは致し方の無いところだ。
(@828)