2002年08月09日(金) [過去の今日]
んー、反論なのかなんなのかいまいち理解に苦しむ。そこからリンクされてた 山形浩生の記事に対する反論 も同様なのだが、「私はわかっている」「あなたはわかっていない」という主張以外は何も読み取れない。まるっきり反「論」になってないのね。だいたい、
「理論が完璧じゃなければ動いてはいけない」
などとは誰も言ってないわけで、俺は単に「成功の可能性が見出せない」と言ってるだけ。
例の記事 も同様だと思われ。
このような誤読も甚だしいのだが、それ以上に、
まあ、どっちみち、こういうのは実際に自分が働いてお金を稼ぐ立場になったことが ないとわからないものだがな。
というこの意見もひどいもんだ。失礼極まりないのはもちろんだが、これはいわゆる論理の誤謬を呼び込む弁論術の一つであり、意見を言う資格を相手から奪い取ろうとする手法だね。相手の意見ではなく、人間そのものに向けられてるところがミソ。反論できなくても弁論に勝つことができるのね。おそらく、意識しないでやっているのだろう。その証拠に
何を見聞きしても、自分の中にそれがなければわからないものだ。
とも直後に述べている。ここの「それ」というのは理解の素とでも言うべきものだろう。1+1=2を知らない人間が二次方程式を理解できないのと同じで、1+1=2が理解の素になるわけね。ま、これは確かにその通りだ。ただ、前にも言ったけどまっ杖の記事は決めつけが多い。今回の決めつけは「体験」と「理解の素」を同一視してるところだね。ある体験が一つの理解の素を生む事が真だとしても、その一つの理解の素を生むのがその体験だけだとは限らない。ここにも論理の誤謬が見受けられるね。
(@208)