2002年08月10日(土) [過去の今日]
あんまし時間無いので短めに。
私は要するに、「こしあんはわかっていない」ってことだけを言いたかっただけだ。
とのことなので、俺の方に誤読は無かった模様。だが、
こしあんの返事は、「論理的に間違っているところを指摘して終わり」という構造 だ。 この構造自体が、私が先に言った「理論が完璧じゃなければ動いてはいけない」 ということをそのまま示しているんだ。
というのは見逃しがたい。人にものの良さを伝えようという時、根本的な誤謬があれば信じないのが当り前だ。誤謬に気付かず信じた結果が妙ちくりんな新興宗教の信者達なのだから。誤謬を気付かせないように人を説得するなら、それは新興宗教の勧誘活動と変わらない。
別段、完璧な論理じゃなければ信じないというわけでもない。情緒的な話の中にも真理は含まれている。しかし、どんな話の中にも、真理が含まれているのであれば、バックボーンに筋の通った論理が必ず存在しているものだ。バックボーンの論理に誤謬が含まれていれば、警戒するのは当然だ。それに情緒的理解と論理的理解は相互に補完しあう関係であり、どちらが欠けてもよろしくない結果になりがちである。
ああ、そうじゃなくて、ただ単にこしあんが「興味がないけど、とりあえずこう思う よ」っていうことで書いたのならばそれはそれでいい。 だとしたら、すぐ上の発言 は取り消す。
興味があって、うまくいきそうなら地域通貨を用いた活動を始めたいと思ってる。これは高みの見物でもなんでもない。実践のための考察だ。そのためにはメリットとデメリットと展望を正しく理解せねばなるまい。ここに論理は不可欠だ。人を巻き込む活動だけに、慎重にならざるをえないのは致し方の無いところだ。
(@828)