狐の王国


2005年04月11日(月) [過去の今日]

#3 山本七平の日本論

ふむふむ。

最近読みはじめたばかりで詳しく言えないのだが、例えば、「無宗教」がひとつの宗教であるという観点がある。「話せばわかる」と言う「話し合い絶対主義」において、その信仰の対象である「話し合い」は、キリスト教を信じる人が「神」と呼ぶものと、非常に近い位置にあるという話もある。そういうことを、息の長い論理でとことん考察しているのだ。

日本人は自分が信じていることを、自分でよく知らない、そこに大きな問題があると、山本氏は言う。

とのこと。同じような事考える人もいるものだなあ。日本で哲学を学ぶ人間として、日本人の宗教観というのは一度は考える機会のあるテーマだが、やはり行きつくところはここなのかな。

日本人が自分の信仰を自分で知らないというのは確かなことで、それは日本人の宗教観が民族宗教に根ざしてることにも起因するだろう。神道というのは宗教であると同時に民族意識でもある。八百万の神というアニミズムにより、我々日本人は民族の倫理観を形成している。火遊びをすると火の神様が怒ってバチをあてられる、山の神様が恵んでくださった水、自然を森羅万象の神々と捉え、畏れや感謝を内なる心に刻み込んで来た。自然のみならず、トイレの神様、道具の神様などを想定し、人工物も大切に扱うように教えられたものである。それが一つの倫理観となり、自然と共存する考え方や物を大事にする考え方に繋がるのである。

しかし、これがあまりに自然にとけこんだ考え方であるために、自分が宗教活動をしてるということに気付いてない日本人も多い。「食べ物を粗末にするとバチがあたるぞ」とか、「死者を冒涜するな」とか、これらは食べ物にも神が宿り、死者は神になるという神道の考え方に起因するものであろう。こうして日本人の倫理観が神道と密接に結び付いてることも、気付いてないのである。あまりに自然すぎるがゆえに。下手をすると初詣を宗教活動だと考えてない人々も、そう少なくないのかもしれない。

そうした人々が神を意識せず、依り所とするのが論理(logos)でる。引用部の「話し合い」というのも、言葉(logos)を依り所とした行為であろう。科学信仰も同様だ。そういう人達は論理や科学は誰にでもわかると考えているが、実際にはそうではない。論理を受け付けない人間というのは実に多いのである。近代まで子供と女性には理性が無いと考えられて来たのは、差別的な偏見というだけではないのである。理性を構築するには、素養と訓練が必要だということなのだ。 *1

今の日本の現状を見れば、神への意識が薄れ、なおかつ理性の構築に失敗した人々がたくさんいることがわかるだろう。倫理観の崩壊の正体はこれなのである。

と、うっかり長々と書いてしまったが、ともかく似たようなことを考えてる人がいたというのは心強いな。ぜひ読んでみたいのだが……アマゾンだと マーケットプレイスにしかない なあ。絶版物かね。図書館にでも探しにいくかなあ。

(@623)


*1: 当時の状況を考えれば、女性に理性を鍛える機会が極端に少なかったのは確かだろう。それが偏見を裏付けてしまっていたと考えると、理性が無いと思い込んでしまうのもむべなるかな。まさに差別が差別を呼ぶ状況だったのではないかと推測される。
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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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