狐の王国


2003年08月23日() [過去の今日]

#2 パソコン文化

どうもパソコン文化というものが存在するような気がして来た。

BBSやメールに「レス」をつけ、アプリケーションは機能がふんだんに盛り込まれたものを好み、ショートカットよりもファンクションキーを使い、ひらめきよりも慣れを重んじ、統一的である事をもっとも重視する文化。

この文化のコンピューティングは、「紙に出力する」事を最終目標とすることが多いように思われる。WISYWIGが発達し、最終出力状態を見ながら確認する、視覚によるコンピューティング。この文化では、ワードプロセッサがDTP化し、DTP的な作業を簡易に行うツールが広まり、情報の流用はほとんど行われて無い。なぜならその場限りのデータを作るための環境であり、その場限りのデータを求めるからだ。アクセシビリティやポータビリティは考えなくていい。どうせ紙に出すだけなのだから。

なぜか世間ではこのパソコン文化による環境が一般的であり、統一性を好むため、一社の製品に偏って普及しているようである。統一で無い事は悪であるようで、彼らは性善説に基づき自分の環境でしか読めないファイルをメールに添付してくる。統一でない事が最も悪なので、読めない環境が存在すると、自分の環境からソフトウェアをコピーし、配布する。無断のコピーや配布はライセンス違反だとしても、非統一であるという巨悪の前の小悪であるようなので、問題ないらしい。

他人の環境までも統一されてなければならないと感じる彼らは、自分のウェブサイトに自分の使用しているブラウザを明記し、それで読めと注意書きを添える。他のブラウザを検出して、そのようなブラウザを使ってる相手には「見るな」と書いたページだけが見えるようにしてる人もいる。思えばパソコン通信時代、配布されたMIDIの注意書きには必ず「対応音源」が書いてあった。SC-88Proを持ってない人には聞いてもらいたくない *1 とか、それと同じだろうか。

また、慣れを重んじる文化であるため、ルーチンワークに抵抗感が無い。それくらいスクリプトを書いた方が楽ではないかと思うこともしばしばあるのだが、ルーチンワークで処理することを選ぶ。また、パソコン文化のOSにはルーチンワークを自動化する機構が存在してなかったり、あったとしても非常に不便なものであることが多い。または存在をほとんど知られていない。それから、慣れを重んじるので他の環境に移る事には大きな抵抗を示す。文書も既存環境でしか読めないので、他の環境に移行しようが無い。でも、統一という最大善のためには、既存環境への依存は受け入れるべきであると考えられてるようだ。この考え方はもちろん他人も統一されてなければならないので、他人も同じ環境に依存してなくてはならない。そうでないものは裏切者であり、悪であるので、他の環境への移行をしようとしてる者の足はひっぱる。

さてはて、このような文化をパソコン文化と名付けてみたのだが、ホントに存在するだろうか。他者と同じであることがよいという風潮は、この日本の風土にはほんの小さな子供にすら根付いていると感じる事もある。利発な方法で素早く仕事を終らせて定時退社する者よりも、愚鈍なルーチンワークで毎日遅くまで残業してる者が評価されるという話も聞く。

やはり、パソコン文化は存在するのだろう。それは我々の知らない所でいつの間にかはびこり、普通になっているのだ。現にUNIXの世界にすら、KDEやGnomeといったパソコン文化を模倣したUIが生まれてきている。

パソコン文化の解は、決して悪いだけのものではない。たまにしか使わない作業環境など、ショートカットやマニュアルなんて見てはいられない。ソフトの画面を見て使えるという初期効率性の良さは、使用頻度によっては実に快適である。

Gnome/KDEは、UNIXにパソコンの良さを提供してくれるのだろうか。それともUNIXをパソコンにしてしまうのだろうか。

(@722)


*1: もちろん本当に優れた作品は、どの音源で聞いてもそれなりに聞こえてた。FM音源でもすばらしかった。
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