狐の王国


2003年07月02日(水) [過去の今日]

#1 オープンソースは「完成」に弱い

ここしばらく えりむ とIRCで続けて来た議論の中で、「オープンソースは完成に弱い」というある程度共通した見解が導き出された。まだまだ俺自身の考えもこなれたものではないが、とりあえずここに書いてみようと思う。

オープンソースとその背景にあるハッカー的な考え方というのは、わかる人にはすぐわかるだろうが、非常にプラグマティズム的である。プラグマティズムは「開拓者の思想」と呼ばれる事からもわかる通り、まず行動ありきの思想で、時間の無い、即効的な効果が欲しい時にはそのままでも非常に有用な考え方である。しかし反面、繊細さや深みに欠けやすい事は想像に難くないであろう。事実、オープンソース的な手法で作られて来たUNIXのソフトウェア群というのは、有用ではあるが荒削りなものが多い。だがその荒削りなソフトウェアの中には、世界を席捲するソフトウェアにもなっているものも少なくない。

しかし、プラグマティズムが有用なのは、これが「前進するための思想」だからである。さて、それでは「前進」が必要なくなったら、どうなるだろうか。

ソフトウェア製品というのは異質である。「Simple is best」「Keep It Simple, Stupid!」と言われるUNIXですら、高機能性を必要としており、複雑化の一途をたどらざるを得ない。要求が増え、複雑さが増せばバグも増える。ソフトウェアは「完成」に辿り着きにくい存在である。また、通常、製品が出荷される時には、それは完成しており、完成してないものは不具合として無償修理されるか、機能が足りないものはそういう機能を有した別な製品が出るのを待つしかない。ソフトウェアはソースコードをいじる等する事により、不具合を治したり機能を付け加えたりできる。リリース後のバグフィックスは、ソフトウェア製品にとって日常茶飯事である。それは、ソフトウェアが完成しにくいという特性を持った異質な製品だからだ。

完成しないからこそ、前進するための思想はソフトウェア開発に有用である。しかし完成してしまったらどうだろうか。前進が必要なくなったらどうだろうか。「フォントには完成がある」と言ったフォント開発者がいた。実際iso8859のような数十文字で足りるフォントでも無い限り、オープンソースのフォントはほとんど無い。ましてやバザール形式で開発されたものなどは皆無ではないだろうか。また、前進が必要だからこそ、ソースコードを開示し、ユーザーや同業者とともに作り上げていくメリットがある。完成してしまった製品のソースコードを開示するメリットはあるだろうか。今の所、俺には思い付かない。

オープンソースは完成に弱い。完成したものはオープンソースになりにくい。この自分自身で導き出してしまった結論に、俺自身どう対応していったらいいのか、少し戸惑っている。

(@637)

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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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