2006年07月13日(木) [過去の今日]
#1 エヴァンゲリオンの偉大さをハルヒブームに学ぶ
寝つけず明け方を迎えてふらっとblogなどに目を通していたら、 エヴァンゲリオン・コンプレックスを克服した涼宮ハルヒの憂鬱は最強。 という記事を見つけた。この記事を発端に、各地で議論が勃発、オタク論にまで達してるらしい。
つくづく、新世紀エヴァンゲリオンという作品は偉大だったのだなと思う。10年たった今も、これだけの議論を呼べるのだから。
俺はエヴァについて、多くを語るつもりは無い。ただ言えるのは、エヴァは純文学であった、という放送当時からの俺の感想だけだ。
こういうことを言うと事情通過ぎるオタク方面から、やれ制作が間に合わなかっただけだの、スタジオ内情のひどさだのと、いかにエヴァが、ひいてはガイナックスがひどいかという話をされるのだが、それが無関係であることは今の人達ならわかるであろう。出崎統の3回パンや止め絵をリソースの少なさゆえの苦し紛れとしか解釈できない30年前のオタクと同レベルではあるまい。
さて、エヴァの純文学としての出来映えはともかく、純文学と大衆文学を並べて比べる愚かさは理解できるだろう。同じ小説だからというだけで、比較するのは愚かしいことこの上あるまい。
多くは語らぬといいつつ少し語るが、あのラストについても俺は絶賛する。なぜならあれほど多様な解釈が可能なラストも無いからだ。リンク先の人が言う
(そしてエンディングが受け入れられず、永遠に自分の中で話を終了できない。という理由もまた・・・)
というのは、受け入れられない解釈をしている自分自身を受け入れられてないという事なのだ、と言えばわかりやすいだろうか。
それはそれでいいのである。受け入れられる解釈をした者もいれば、そうでないものもいる。それぞれが多様な解釈をするがゆえに議論し、いまもって話が終ってない。これぞ名作と言えるだろう。
事実、こうして10年の時を経て、また議論している人たちがいるということが、そのなによりの証明であろう。エヴァンゲリオンという作品の偉大さを、このハルヒブームの中から再認させられたのは有意義であった。
(@875)
@ あ、ハルヒおもしろいよハルヒ:
おもわず放送順と時系列順で2回見た。
(@917)