狐の王国


2005年03月20日() [過去の今日]

#2 目が点になる

広辞苑にも載ってる言い回しだが、先日TVを見ていたら意外と最近できたものだそうで。なんでも、シンガーソングライターのさだまさし氏の音楽スタッフ(ギターの人だったかな)が、「嗚呼!! 花の応援団」という漫画の目が点になる絵を見て言い出した表現なのだとか。

確かに漫画的な表現だなとは思ってたのだが、まさかこんな最近できた言葉だとは思わなかった。「嗚呼!! 花の応援団」の連載開始が1975年だそうで、広辞苑第5版の発売が1998年。たかだか20年ちょっとで我らが日本語に新しい熟語が追加されたことになる。言語の変化の速さというものを思い知らされる。「正しい日本語」とやらを標榜し、言葉狩りを行う連中に知らせてやりたい。

そもそも自然言語に一定の規則を見出したものがいわゆる「正しい日本語」なのであるが、規則を絶対ととらえる人間が多くて困る。言葉が先か規則が先かなどと書くと鶏卵問題的ではあるが、言語規則は人間がまさしく言葉を以て体系化した代物なのだから、言葉が先でなければおかしい。そして人間の理性は不完全であるが故に、言語規則から外れた言葉も存在しうるのである。同様のことは自然科学にも言える。眼前にある自然を数学を以て体系化しようという試み *1 が自然科学であるはずだが、それを忘れて「自然は数学でできている」などと言いはじめるともはや一つの宗教になってしまうだろう。数学もまた、所詮は人の作りしものなのである。

ソクラテスが言い遺した「無知の知」という言葉は、人間の不完全な理性を指摘した言葉であろう。古代ギリシャにおいても西洋哲学においても、神という完全なる理性の対比として人間の不完全な理性が語られて来ており、己は神ならぬ人であるという自戒めいた空気を感じることができる。だが、我々現代日本人に神はいない。欧米にも無神の時代が忍び寄りつつあると聞く。それが完全なる理性というものを忘れさせ、人間の理性を過信し、言語規則や科学を絶対的に捉えがちになる理由だろうか。だとしたら、我々はどうやって己の理性の不完全さを知ることができるのだろうか。

(@527)


*1: 哲学の根元的問いと言われる三つの問いのうちの第一「世界とは何か」に対しての数学的アプローチと言い換えていいはず。
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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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