狐の王国


2004年09月10日(金) [過去の今日]

#1 私達と出会わない?

ぼけーっとblogを回ってたら見付けた。はてなダイアリーに宣伝アカウントを付けて入場させ、ライブドアのblogに誘導。そこは一日一回、写真付きで3人の女性が1つずつ記事を書いている。しかし毎日同じ文面。

内容は「彼氏がいないので、私達と出会ってください」というもの。 いろいろリアリティを持たせようと設定を考えてるのはいいが、出会い系サイトに「女の子引っかかるらいしよ!」とかいってリンクしてるのでモロバレ。

で、あちこちにコメントspamしてるらしく、クレームのコメントが入ってて大笑い。真に受けちゃった人もいれば勘違いしてる人もいて、なんかおもしろかった。もうちょっとうまくやったほうがいいぞぉ。

しかし、こういうネタ系詐欺サイトに使われてる女性の写真ってのは、どこから出て来るんだろうなあ。そいや出会い系サイトに写真使われたーって嘆いてる女性がいたっけ……。そうか、そのへんの個人サイトからぶっこぬいてるのか。

(@068)

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#2 巨人に殺された新人投手

まあ、巨人はこういう球団だよなあ。松井がメジャーに行くときのセリフなんてひどかった。「裏切者と思われてもしょうがない」なんて、ワールドクラスに羽ばたこうとしてる選手に言わせちゃならんよな。生え抜きが強くなるのは難しい球団ってことで、そりゃ引き抜きも多くなるわな。

(@085)

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#3 ハラキリ

自殺率:日本が先進国でトップに WHO調査 という記事にある一文、

また、日本の場合“腹切り”の伝統があるように、自殺に寛容な文化的土壌もあるのではないか」と話している。

に対する反論を見付けた。自殺と切腹は意味が違っており、現在その伝統は受け継がれてない、とのことだが、これはそういう意味ではないだろう。

キリスト教圏やイスラム教圏では、自殺は禁忌である。神の教えに背く行為であり、地獄に落ちてしまう。対して日本では恥をそそぐためだけに腹を切って死を選ぶ事が、武士らしい行為として尊ばれていた。つまり自殺に対する抵抗感が、キリスト・イスラム教圏より薄いのではないのか、という指摘だろう。

この指摘を、我々日本人は否定できないだろう。だが、むしろ大きいのは無宗教化が進んで禁忌と言えるものが激減してる事ではなかろうか。自殺を禁忌と感じる倫理感が希薄になり、逆に自殺に憧れる少年少女を生み出している。これは生に向かうという生物の大前提を崩す状態であり、非常に危険である。

以前は自殺すると天国に行けない、頑張って生きれば天国あるいは浄土に行ける等、宗教の説法によってどんな辛い状況をも生に向かわせる事ができた。今、こんな事は子供でも信じたりしない。

新たな倫理観:

宗教的倫理観による生きる力を失った我々は、新たな生きる力を手に入れねばならない。信じる力の無い人間に何かを確信させるには、疑問を挟む余地を無くす、つまり論理を用いるしかない。だが論理を倫理に用いようとすると、いくつかステップが必要になる。例えば:

1. すべての人間は自殺をしてはならない
1.1 多くの自殺の方法は他者に損害を与える
1.1.1 すべての人間は遺体の処理や自殺現場の掃除を喜んで行ったりはしない
1.1.2 一部の自殺の方法(電車への飛び込み等)は、他者に莫大な金銭的損害を与える
1.2 すべての人間に迷惑をかけない自殺は無い
1.2.1 すべての場所は誰かの所有であり、自分の所有であっても死後は他者に所有が移る
1.2.1.1 遺体を片付ける責任は、その場所の所有者にある
1.2.1.2 遺体を放置することは犯罪である
1.2.1.3 遺体の放置を期待する自殺は、誰かを犯罪者にする行為である

もっとも簡単なステップを踏んでもこれだけかかる。本来ならばこの前提として「他者に損害を与えてはいけない理由」等の論理証明や、責任の有無等の根拠となる法律の解説が必要となる。非常に繁雑であり、またすべてを教えるのに時間がかかりすぎる。

もう少し現実的な解を考えてみることにしよう。先述のような論理による説法を理解できる人間は、実はそう多くは無い。論理は誰にでもわかるというのは嘘である。論理を理解しない人間は確実に存在する。また、人間の大部分は宗教を信仰する素養がある。すでに信仰している場合も少なくないであろうし、そうでない者もたまたま宗教に触れずにすごしてきただけで、説法を聞けば非常に納得して帰る事が多いのである。また宗教家というのはそういう技術と知識を備えている。

なれば、多くを宗教に任せる事は、今でも可能なのではないだろうか。親が寺や教会に通い、子供が宗教に触れる機会を増やすのである。最近は新興宗教の影響で、宗教というものをうさんくさく感じる方も多かろうが、実はそんなに特別なものではない。古来より日本人、特に大和民族はアニミズム・シャーマニズムをベースとした民族宗教を持っており、現代でも「山の神様」などという言葉がさらりとテレビのCMに入り込んでいたりするし、安産、交通安全等を祈祷して護符を持ち歩く事も少なくない。このようなものも立派な宗教活動なのである。琉球民族とアイヌ民族の宗教については知らないのだが、恐らく似たような観念が存在していることだろう。寺や教会に通うのに抵抗があるなら、自分の中にあるこのような民族宗教の種をもっと意識するだけでいい。万物に神が宿ると思えば、トイレを汚くすればトイレの神様に罰をあてられる、無闇に火を扱うと火の神様が怒る、奇麗にすると神様が喜ぶから、何かいいことが起きるかもしれない等々、非常に倫理的な理解が得られる。アニミズム──八百万の神とはまったくよく言ったものである。

もちろんこうした宗教的アプローチとは別個に、論理的アプローチも行っていく必要があるだろう。宗教的アプローチのみでは、懐疑に勝てないからである。懐疑を論理的アプローチで消しながら、大部分を宗教的アプローチでフォローしていく。これが我々に必要な新しい倫理観、そのコンセプトではなかろうか。

(@094)

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#4 「サンプリング」には使用料が必要──米控訴裁判所判決

リミックスという音楽制作手法が法律によって禁じられる、と解釈していいのかなこれは。

(@766)

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#5 mga_vid復活

なんかDVDや動画が遅くてしょうがないなあと思って、試しに一度失敗した2.6カーネルでのmga_vidをコンパイル。あっさり成功。なんだそら。glxと競合するXF86Config-4のmgaドライバのオプション

Option         "TexturedVideo"         "True"

を外す。

するとえらい全体が速くなった。謎。こんな軽かったのかLinuxって。バックアップ中も少々もっさりする程度ですむな。

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#6 udev devpts

mga_vid周りのために、ぼけーっとudevをいじくって遊んでたら、ターミナルが立ち上がらなくなった。なんだこりゃ、と思ったら、どうやらdevptsとかいうファイルシステムをマウントしなきゃならないらしい。

mount -t devpts  -o rw,gid=5,mode=620 none /dev/pts

で解決。いつのまにこんなものできたんだ? /etc/fstabにも

none            /dev/pts        devpts  rw,gid=5,mode=620       0       0

を追加。

(@862)

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#7 Firefox のブックマークとサイドバー

サイドバー生活をひたすら続けてたので、Firefoxになってからは EZ Sidebar を利用してパネルに追加してた。が、よく見るとFirefoxのブックマークには「このブックマークを Sidebar にロードする」というオプションがある。これをオンにして Personal Tool Bar にでも放りこんでおけば、一発でサイドバーに呼び出すことができる。これは便利だ。

(@874)

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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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