2003年12月12日(金) [過去の今日]
日頃から「オリジナリティなぞカスだ」と言ってるような俺には懐かしい視点。
オリジナリティというものが至上の宝物のように扱われる風潮は、正直いってよろしくないと俺は考えている。新しい大地を求めると、どこもかしこも開墾済みで何もできなくなるしね。それにいきなり未開の土地を切り開こうなんて無茶無謀。かぶっててもいいじゃない、パクリだっていいじゃない。喜びは開墾することではなく、作物ができることにあるんだ。手近な所から耕してけばいいじゃない。
積極的にパクるのもいいと思うなあ。もっとどんどんパクればいいのにとすら思う。吉野屋コピペなんてパクリ文化とすら言えるよね。上手な人の作品をパクっていくということは、その人の持ってる技を盗む事でもある。「技に著作権は無い」ってのは島本和彦だっけ。結果的に自分の血肉になっていくもんなんだよね。そしていずれは未開の大地を切り開く力も付いていく、そういうものではないのかな。
(@024)
#2 疲労か?
ぬう、どうも感情の抑制が効かんな。理性までぶっ飛んでるとは思わんが。一向によくならんどころか悪くなる一方の体にいらつく日々に、疲れてはいるのかもしれん。
だるくてもできるストレス解消法なんかねえかなあ。
#3 善の定義
脳味噌はまわってるようだし、とりあえずたまには文系らしく、哲学的思考で遊んでみる。こういうページを作る計画は前からあるんだが、ウェブに載せる意義を見出せないのとhnf並に簡単に書けないと続かないのは目に見えてるのとで頓挫中。
かのソクラテス曰く「人間はただ生きるのではない、より善く生きるのだ」とのこと。この「より善く」の善の中身はプラトンのイデア論が受け継ぐことになるのだろうが、もうちょっと実践的かつ簡素な定義を考えてみよう。
ソクラテスは真に善美なるものは人間には知り得ない *1 と言っている。それをイデアとして放り出すと実践的とは言い難いので、幸福論の要素を組み合わせてみよう。幸福を最大善として捉える考え方だ(ったと思う)。
幸福が善であるとして、誰を幸福にすればよいのか。まず幸福というものの主体は自己である。他者の幸福というのは幸福であろうと推測するか、あるいは幸福そうに見えると認識するしかない。他者の幸福は不確実である。故にまず確実な幸福を存在したらしめるには、自己の幸福が最優先事項である。
自己の幸福を得て維持するためには、他者の幸福が必要であると推測する。周囲が不幸であると、幸福な者は妬まれ、攻撃に晒される可能性が高いからである。これは歴史的に証明されてるとは言えまいか。平和で豊かな国は幸福であろうが、周囲の荒れて貧しい国から戦争を仕掛けられるだろう。故に自己の幸福の維持のためには、周囲を幸福にする必要がある。
以上の事から、ソクラテスの言である「人間はただ生きるのではない、より善く生きるのだ」は、「人間はただ生きるのではない、自己の幸福と周囲の幸福を実現しながら生きるのだ」と読むことが可能である。
次の問題は幸福の中身であるが、これは幸福論の中でも最多である快楽主義に繋げる事が可能であろう。公衆的快楽主義とも呼ばれる功利主義は、今の先進国の考え方のベースでもある。
というわけで、「みんなで幸せになろうよ」。
@ うーん:
他者の幸福の必要性がけっこう苦しいなあ。しかもつまんない話になっちゃった。もうちょっと面白い展開できないかなあ。
(@125)
@ 念の為:
あんまり本気に取らないように。そもそもソクラテス自身の幸福のあり方を無視してる時点で遊びなので。
(@159)