2004年02月01日(日) [過去の今日]
興味深い。
俺は言論は誠実であるべきだという考えに基づき、極力論理一貫性を以て話す事が多い。しかし、たまに「まるめこまれた」と言う輩がおる。こちらとして論理的に話しているのだから、そちらも論理的に反論すればよろしいではないかと思うのだが。どうやら世間一般では非論理的な対話というものが存在し、それでコミュニケーションが成り立ってるらしい。そのようなコミュニケーション手法で対話に参加し、論理的に話してはならないようなのだ。だから論理的に話すと「まるめこまれた」と言われてしまうのだろう。
もし、俺の論理的な話し方に手加減があれば、「まるめこまれた」などと言われなくても済むのだろうか。たぶんそうなのだろうが、論理に手加減という要素を持ち込む事自体がすでに理解不能だ。論理は論理としてただそこに存在するものなのに。しかし、なにかしらの手加減手法が存在するのだろう。それを探さねばならないのだろうか。
(@872)