2003年12月07日(日) [過去の今日]
ねぎ式 でハッケソ。
概ね、ねぎ式の著者様の意見に同意。だが、そもそも表題記事で書かれてる「誰が幸せになったか」の例は出発点が間違ってるんじゃないだろうか。
そもそも理解できないのは、“目立ってしまう自分のテキストに驚き、そして当該のテキストを削除”してしまうという行動だ。どうしてそこまで目立ちたくないと考えるのだろう。
そのような事例として俺が知ってるのは、「テッサ先生の補習授業」という文書の事例だけである。これはこのサイトからもリンクを貼って、その直後に削除された。どうやらあちこちで話題になって反応や反論がたくさん帰ってきて、その内容が不愉快だったらしい。
不愉快な意見を真に受けるということが、すでに問題ではないだろうか。言いたい放題言われるのはどこの世界にいても同じでは無いのだろうか。ネットだから消せるが、会社や学校や地域で同じ事があったらどうするつもりなんだろうか。
結局ネットだからといって特別な事は何もなく、目立つ奴は目立つし、周囲と衝突する意見は衝突するのである。ネットは匿名だと勘違いしてる人もいる事を考えれば、ネットを特別な物と勘違いしてる人もたくさんいることは想像に難くない。だが実際は違う。特別ではない。当り前の事が当り前にあるだけである。その当り前をリンクを貼る側も貼られる側も理解してないから、ページが突然消えるような事件に発展するのではないか。
free to link の精神にしても、これは「ネットの理念」ではなく、自然な行動だと俺は考えている。HTMLの規格的にはよろしくないのだが、「これ」とか「こちら」とか指示名詞にアンカーを埋める事が多いことからもわかるように、リンクはただ指し示すだけのものである。何かを指し示す事に倫理や権利を考える必要があろうか。普段の生活にそんな思慮を巡らす必要が無いからこそ、ネットでも自然に自由にリンクという形で指し示しているだけのことではないのか。
勘違いの産物による事件の発生を、儀礼によって抑止することを考えるならば、勘違いを正すことを考えた方が、道としては真っ当ではないかと思うのである。ネットは特別じゃない、当り前の事が当り前にあるだけである。
(@576)
@ 儀礼的無関心反応リンク集:
blogmap を見てたらこんなものを見付けた。ずいぶんいっぱい反応あるんだなあ。見切れないけど、俺と同じような事は既に言われてたんだろうな。別に書くこともなかったかのう。
(@645)