2001年12月24日(月) [過去の今日]
最近忙しくてあんまりウェブを見てなかったんだけど、いつの間にかこんな論争が巻き起こってたのだね。なんかうすうす気付いてはいたけど「テキストサイト」とかいうジャンルがあるようで、その在り方に対しての論争らしい。どーも発端が見えにくい上に、反論してる人もなにやら小難しい話に終止してしまってなにが言いたいのかわからないのだけど、もっとわからないのは、なぜ「嫌なら読むな」と言わなければならないのか、ということ。
昔から投稿マニアというのは存在して、雑誌や新聞にエッセイ風の文章を投げていたし、そういう人種がネットという発表場所を得て、没にならないという魅力もあってか、せっせとネットに文章を書くということも、パソコン通信の頃からあった。「テキストサイト」というジャンルは、たぶんそれがウェブベースになったものなんだろう。こういうものがネットに乗るようになって、没にならないということの他に、双方向性ってものが付加された。つまり、反応がダイレクトにやって来るということ。でも、実はみんな素人なので冷静さを欠きがちになったりする。それが論争に繋がっているんじゃないかな。実際、NIFTYなんかでも昔からそういう形のフレームは起きてたようだしね。
それで冒頭の「嫌なら読むな」の謎解きにかかるわけだけれども、ウェブベースになる以前は、パソコン通信の会議室なんかにポストされてたわけで、投げた以上「読むな」というほうが不条理だったわけだよね。ところがウェブならそのURIに飛ばないと読めないという前提があるので、見たくないなら見るなと言う事ができるようになった。でも、双方向性と言うのはハイパーリンクやメールによって相変わらず提供されてるわけで、従来の会議室よろしく反応が帰ってくる。そういった反応の中には幼稚で感情的な批判も含まれたりもする。そんなのとまともに論争したくないので「じゃあ見るなよ」ってことになるんじゃないかと思うわけだ。あるいは逆のパターンで、まともな批判であっても、自分に対する批判はすべて許せないという人もいる。むしろこっちのほうが多いかもしれない。そういう人もやはり、「じゃあ見るなよ」と言ってしまう。一度こう言っちゃえば、もう残りの批判を全部「じゃあ見るなよ」で通してしまうのは簡単だ。これをミルナ・スパイラルと名付けよう。
このミルナ・スパイラルに陥ると、批判を受けつけなくなる。議論するのはそれなりに消耗するし、受けつけないとなればその消耗を回避できる分だけ楽だからだ。どっこい、回避された側はどうだろう。わざわざ批判を送るくらいだからそれなりに体力は余ってる。回避されてしまった事に腹を立て、さらに批判を投げる。投げられた方も読まずに捨ててるわけではないので、腹が立った状態で書かれた批判に更に立腹する。これがミルナ・スパイラル 2ndシーズンだ。2ndシーズンに入ると、もうそれはフレームだ。「見なきゃいいだろ」と「人の話を聞け」の論争なのだから、もともと論点が合ってないし、感情的になってるのでまともな議論になるわけがない。まれにだが、この2ndシーズンに入った直後に腹を立てすぎてその場から立ち去ってしまう人もいる。
基本的に、「嫌なら見るな」という態度は間違ってはいないだろう。わざわざ立腹するようなものを見る必要はないわけだし、その情報を必要とする人がいる可能性もあるわけだから。存在を許せないという考えでは、どこかのテロ組織と一緒になってしまう。ただ、嫌だということと批判するということとは別物だ。これはごっちゃにしないでいただきたい。いやほんと、勘弁してよ、そんなちょっと言っただけなのに……
(@936)