2003年03月19日(水) [過去の今日]
たらちゃんの記事は何についてのことなのかわからないことがたまにあるけど、 「再放送」 と称するリンクをたどってやっとわかった。未来のOSこと Mac OS X とMacユーザーのblogに対してのコメントなのね。明言してないのは、範囲をそこに限定したくなかったからかな。
俺はアンチMacを自称してるし、MacOS Xを導入したとしてもUNIXとしてしか使わないのは目に見えてるので、少なくとも俺にとってはまったく価値は無い。だけど、UNIXベースのメジャーなOSとしてはおもしろいなと思ってウォッチしてる。なのでMacユーザーのblogも見てないわけじゃないのだが、確かにレガシーMacとOSX論争はたびたび話題にのぼってるね。どうせサポート終了してから巨大なセキュリティホールでも発見されれば嫌でも乗り換えざるを得ないのだから、ほっとけばいいとは思うが。
未来のOS像なんて俺には想像もできないけど、
何を使うのかではなく、何がしたいのかです。
という言葉には納得できる。俺自身がUNIXを使用してるのもテキスト処理の効率を追求して、という面も少なからずあるからだ。俺のコンピューティングの大半はテキストの入力と処理だからね。
だが、結局の所は「したいこと」と「できること」の妥協点の話になるのではないか。強力なテキスト処理はUNIXの最も得意な「できること」であり俺の「したいこと」だから、相当な高次元の妥協点だ。そして妥協点の選択は未来ではなく、「今」と「過去」が基準になるのは間違いない。未来に可能になろうとも、今できなくては意味が無く、できるかどうかは過去の実績を見るしか無いからだ。
我々人間は時系列にそって動き、五感を駆使して外世界を感覚し、知覚する。知覚は感覚の前には働かず、常に感覚という過去の出来事を用いて知覚する。すなわち、我々は未来を知覚することが無い。故に我々の知性は常に過去に対してのみ働く。我々の知覚可能な未来とは、過去の情報を元にした推論以外の何者でもない。
また、我々の知覚する世界とはすなわち知覚の総体であり、知覚とは前述の通り過去の情報とそれを元にした知性活動の結果である。おのれの知る範囲外は世界には存在しない。その世界が狭い *1 というなら広げてやればいいだけのことだ。
ただ、唯一未来を知覚する方法がある。それは自らの手でものを造り上げることだ。これから自分で作るものは現存せず、なおかつ未来において存在することを、作業を通して知覚できるのである。未来のOSは、未来のOSの作り手にしか見えないのである。
未来の見えない我々はさて、何をすべきだろうか。
(@779)