狐の王国


2001年08月05日() [過去の今日]

#1 ウルトラセブン、幻の12話。

  いぬ@誕生日おめでとう に何度も「うちには幻の12話があるんだぞ」と自慢されてたのを思い出す。見たいという気持ちも強いけど、それよりこの記事を読んで思ったのは、差別というものに対する考え方のこと。
 差別はいけないこととずっと言われてきたし、それは正しいことではあるだろう。だが、本当に「差別しない」ということがどういうことかという問題は、つい最近までほとんど論じられなかったように思う。
 差別しないことと、被差別者を守るということは、決して同義ではない。守ろうとすればするほど、その対象を特別視していることになるからだ。特別視するということは差別とまさに同義だ。
 だから、差別しないということは「特別視しない」ということであるはずだ。なにも難しいことじゃない。世の中にはビデオの予約が出来ない人もいれば、重い物を持てない人もいるし、棚に手が届かない人だっている。耳や目が機能しないことも被曝していることも、それと同じだと考えればいい。
 ようは過剰に考える必要はない、普通にしていればいいということだ。目が見えなかろうが、耳が聞こえなかろうが、あるいは被曝していようが、たいていは普通に生活できる。良くも悪くも気にする必要はないし、必要があれば助ければいい。ビデオの予約を変わりにしてあげるのと同じように。
 被差別者も、下手に劣等感を感じるからいつまでも差別されるのだろう。堂々としてれば、誰も文句は言わないのに。
 これはいじめ問題と同じだ。いじめも、いじめられる側が下手に劣等感を感じているからいじめられる。堂々としてればいいのに。
 だいたいこういうことを言うと「誰もがそんな風に生きられるわけじゃない」とか「自分には出来ない」とかいう答えが返ってくる。そんな言葉に真面目に返答する気はない。ようは「自分を変えるか、現状を受け入れるか」という二者択一でしかないということだからだ。
 人間は誰も優越感を感じたがっている。だから劣等感を感じている人間を見つけて、優越感に浸りたがる。被差別者もいじめられっこも、人間のこの根本的行動を抑制する方法を見つけるか、自分を変える以外に、状況を打開する方法はない。そして前者はまず不可能であろう。だから二者択一なのだ。
(@701)

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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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