2001年05月20日(日) [過去の今日]
#1 オープンソース論争
これって 、難しく書いてあるけど、要するに「苦労して作ったもんなんだから金払え」ってことだよね? GPLって、元々企業不信から来てるもんでしょ? 喧嘩ふっかけるより信用を取り戻すことの方が先だと思うけど。
ていうか、資金ゼロから作ったソフトに、大金つぎ込んで開発したソフトが脅かされてるって時点で、方向性を間違えてるとしか思えないんだけど。
時に、
みこもえ先生 がおっしゃる「より上位レベルの経済モデル」ってのはどんなものなのかな? 非常に興味津々なのだけど。
#2 AT2ATX
どーもAT電源がへたってるようで、UPSついてるにもかかわらず、掃除機などが動くとリブートしちゃう我が家のWindowsマシン。それでATX電源が安く売ってたので購入してきた。今その取り付けをしてるんだけど、これが参った。
すっかり忘れてたんだけど、AT電源は電源側、ATX電源はマザー側にスイッチがある。そのままATケースにATX電源くっつけても、スイッチがないのよね。おすぎに相談したりして、いろいろ調べたりしてたら、
こんなページ を見つけた。なるほど、リセットスイッチを電源にするのか。これは頭いいね。しかも、ATケース用ATX電源スイッチんかも紹介してる。次にアキバ行ったらこれを探そう。
だが、問題はこれで終わらない。なんと、買ってきた電源のマザーへのケーブルが、短すぎて届かないのだ。まあ、しょうがないといえばしょうがない。BabyATマザーをフルタワーに突っ込んでる関係上、マザーの電源の位置が低すぎるのだ。だからって諦めるわけにも行かず、どうしたもんだか。うううむ、延長ケーブルでも売ってないかなあ。
#3 旧仮名遣い
こんなサイト 教えてもらった。さーっと読んだけど、読みにくい(笑) 読みにくいことこの上ないけど、まあ、言いたいことはわかる。日本語の変遷の中に覆い隠されている一貫したものを見つけだそうというのは面白いと思うし、漢字を使わなくなってる現代に於いて、むしろたくさん漢字を使おうというムーブメントは非常に喜ばしい。
でも、狐志庵は漢字を書くという作業が大嫌いだったりする。1文字を書くのに偉い時間がかかるし、その間に考えてたことを忘れてしまいそうになる。だから、ワープロというものに出会うまでは、文章を書くと言うことも嫌いだった。タイピングなら、考える速度と同じ速度で文章が書ける。難しい漢字も覚えなくていい。要は読めればいいのだから。
でも、いやだからこそ、漢字はもっと多用していいはずだ。そして表意文字としての性格をもっと利用されるべきだ。最近、雑誌の文章を読んでいても「早い」と「速い」の区別が付いてないものが多いし、「制作」と「製作」の区別がついてないものも多すぎる。
この日記の更新はいちいち校正してないから、誤変換も多々あるとは思うし、メールやチャットでいちいちそんなの気にしてたら時間を食ってしょうがない。でも、ちゃんとした文章を書くときくらいは、ちゃんとした漢字を使いたいと思う。ついでに言うなら、漢字の書き方を覚える時間があるなら、漢字の用法を覚えさせて欲しい。学校教育はそういう風に変わっていくべきだろう。
@ どれがどれ?:
というか、狐志庵自身、よく区別が付いてない漢字がいくつかある。「勧める」と「薦める」と「奨める」ってどう違うのだろう。「勧める」は「勧告」の「勧」だから、「そういう風にするべきだ」というニュアンスだろうか。とすると「薦める」は「推薦」の「薦」だから、「自分としてはこちらを支持する」というニュアンス、「奨める」は「推奨」の「奨」だから「こうしたほうがいいよ」というニュアンスになるのだろうか。
ええい、ついでだ、漢和辞典を引こう。
勧
力をそろえて仕事に励む意。つとめる、喜び従う、すすめる、はげます、すすめおこなわせる、さそいみちびく。
薦
鹿などの獣が食う細かい草の意。借りて「すすめる」意に用いる。くさ、獣が食う草、ヨモギなど。細かい草、茂った草。こも、むしろ、草を編んだ敷物。しく、敷物にする。すすめる、さしあげる、献上する、推しあげる。すすめもの、そなえもの。しきりに。たびたび。
奨
犬をけしかける意。転じて大いにすすめはげます意。すすめる、ほめる、すいせんする。たすける、助成する。
困ったもんだ、奨の字に推薦するという意味があるなんて(笑)
まあ、とにかく、だいたいイメージの違いがわかったような気がする。「勧める」はなにか上位にあるものが下位のものに諭すような雰囲気があり、「薦める」は対象に対する尊敬の念がこもり、「奨める」は背中を押すというか、応援の意味合いがあるようだ。
ちなみに
goo国語辞典 では、三つとも同じ意味になっているし、市販の多くの辞書でも多分同じだと思われる。教えるのは難しいだろうけど、こういうことを学校では教えて欲しいと思うんだけどなあ。
#4 ぐあ
#5 肉体と精神
淳ちゃん がおもしろいこと言ってるね。
肉体というハードウェア、精神というソフトウェア。コンピュータが発展するに連れ、それを人間に例えていくという作業は人間理解の一助になっている。でも、コンピュータはやっぱり人間じゃない。
計算機好きにありがちなことだけど、狐志庵はPC達に名前を付けている。メーカー製の計算機はまあいいとして、組み立てた計算機はけっこう困る。たとえば、hogeという名のコンピュータがあるとする。どんどんパーツが入れ替わっていって、しまいには元のパーツが一つもなくなるとする。そしてhogeから取り外されたパーツで一台組むと、初期のhogeそのものになる。さあ、この新しいhogeと古いhoge、どちらが本当のhogeだろう?
結局のところ、PCの名前はケースに付けている感じだ。ケースが変わると名前も変わる。そのうち名前を入れたエンブレムなんかも作ってあげたいし、やっぱりケースで区別するのが一番いいかなとか思ってる。でも、人間はそうはいかない。心臓が人工心臓になろうと、肝臓を他人から移植しようと、すべての肉体のパーツが入れ替わろうと、自分は自分であるはずだ。だから精神に本質を求める人が多いのだろう。ではその精神の正体とは? 現在の潮流から言うと、大脳の反射が精神と言うことになる(んだったと思う^^;)。では、その反射を完全に再現したとしたら、再現されたものは本人だろうか? もちろんそんなわけにはいかないのである。
どんどん突き詰めていくと、本質、すなわち本人であるということを認識させる明確なものというのは、見つけられないものだったりする。いちおう哲学なんてものを勉強してる関係上、人間の本質についても考えたことはある。その時の結論としては、「存在そのもの」が本質、ということだった。存在自体が本人を本人として認識させているのだと。存在そのものという言い方がわかりにくければ、「魂」と言ってもいい。我々はこの魂を、やはり魂で見ているのだろう。存在同士が響きあうように、お互いを認識してるのだとしか思えなかった。学校で発表したときはもう少し膨らませて話したのだけど、「文学的だ」という評価しかいただけなかったっけ。存在を説明するのに存在を用いてるんだから、しょうがないんだけどね(苦笑) それでも、この考えはまだ変わってない。もっと勉強しないとなあ。