狐の王国


2008年04月15日(火) [過去の今日]

#1 人は読みたいものしか読まない生き物です。

なんではてな村民にはこんなに馬鹿が多いのだ? という記事。「書いてあるものを読まず、書いてないものを読んでいる」というのはホントよくあること。なんの前提も持たずに文章を読む人なんてそうそういないのだから当然といえば当然のこと。

俺は別にそれを擁護する気もないし、かといって馬鹿にする気も無い。書いてないはずの前提をうっかり念頭に置いて読んじゃって、べつの文脈で文章を見てしまうというのは、俺もたまにあるしね。反省すべき点だとは思ってるしゼロに近づけるべきミスだと思うが、ゼロにはなるまい。

で、こういう点って自分で書いた文章で起きるのはホントよくあることで、「はい? 俺そんなこと書いた?」「え、なんでそういう話になってんの?」なんてのは珍しくもないのだ。

元記事でも、

まぁこういうことを書くと、「はてなユーザみんなを馬鹿にしてる」とか勘違いする馬鹿もいるんだろうな。

(中略)

ついでに書いとくと、別にこれは「はてな」に限ったことじゃないだろうが、コメント等が整備されているのがはてなくらいなものだから、それが目についたので言っているだけ。「他はそうではない」とは一言も言ってないし、言うつもりもない。

という感じに念押ししまくってたりするけども、そうしたくなる気持ちもよくわかる。俺の知らないところでいろいろoverrideしてんじゃねえよ的な。

かといって「読解力が足りなすぎる」とかいう話に持ってくと今度は「自分の文章を読み違えられたのを読み手のせいにするな」という話になるし、だからってそんなしつこく念押ししなきゃブログの一つも書けやしないのかという気分にもなる。

バランスが大事だねえとか曖昧模糊とした結論はおもしろくもなんともない。

俺がコメント欄を開放しない理由の一つはこれだ。ぜんぜん違う前提で読まれたあげくクレームを付けられるという現場を何度も見てるので、それに対応するリソースを割きたくないのである。

この日記ではじめてはてなブックマークが2桁付いた記事に、 /.-jや2chで散見される「こんな流行知らないぞ、流行ってるなんてウソだろ」系発言へのコメント というのがある。

これの はてブコメント を読むと、「やわらか戦車」「韓流ドラマ」という言葉が並んでいる。

しかし俺はそんなものは1文字たりとも出してないし、そもそも 元ネタのコメントキューピーたらこマヨネーズのクリスマスBOX発売 というニュースのものなのだ。

はてなブックマークのコメントを もう1度見て もらいたい。「たらこ」という文字はあるだろうか?

この現象があまりにおもしろくて、そのうちネタにしようとは思ってたのだが、こういう形でネタにすることになるとは思わなかった。

もっとも、今になって冷静に見直してみると、俺の見出しの付け方がミスリードを誘うような形になってるようにも見える *1 。そういう意味ではこれはトラップに近いという気もする。

まあそういうわけなので、人は見たいものしか見ないものなのだ、と思うことにしている。 ニセ科学批判の菊地教授 も、

「名古屋大学など、いくつもの大学の研究者が集まって、 交通渋滞を物理学の見方で解明する研究論文を発表したんです。渋滞はボトルネックがなくても車の密度によって発生するという。この論文は英国物理学会や米国「サイエンス」誌のウェブサイトでニュースとして取り上げられ、新聞にも紹介されました。

ネットでも話題になったんですが、『車が多いと渋滞するなんて当たり前。バカじゃないの?』という反応になっちゃっている。そうでないことは、記事の本文を読めばわかります。でも見出ししか見られていない。 ネットなんだから、せめて見出しをクリックして本文くらい読もうと。まったく下調べしないでモノを言うというのは、危ないですよ」

ということを言っている。

結局ワンクリック程度の範囲すら見ない人は見ないし、俺だって見ないことはある。

誤読は一定の率で起こるし、裏を取らない人は取らない。自分自身の問題としてはそういったことは気をつけましょうという感じでいいだろうけど、コメントをもらう側(つまり書き手)としては結局他人のことなのだから、実害あるまでほっときゃいいや、というのが俺の結論。誤読率のサンプルとしてはむしろありがたいくらいかもしれない。

もちろん(ほらここで念押し)誤読率を下げるというのは重要なことだけど、それにとらわれすぎてもね。ウェブ全体としてはゴミのようなコンテンツでも溢れてた方がいいと、俺は考えてるのだ。

(@349)


*1: 2chや/.-jで実際ちらほら見掛けてたのである。その時の話題がなんだったのかは記憶すらしてない。そういえば最近は見掛けなくなったな。この記事が多少なりとも抑止力になったのだろうか。
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#2 近未来のPCはモバイルPCとも携帯電話とも区別が付かなくなる

これはPCなのかケータイなのか、それとも──「WILLCOM D4」が開拓しようとする新市場 という記事。

今回のWILLCOM D4に関しては、個人的には買う気は無い。去年買ったどエスの分割払いも1年残ってるし、UMPCは別に買うつもりだからだ。

ただ、D4にはちょっと物欲意外の面で心ひかれた。それはこのマシンが提供するかもしれないコンピューティングのスタイルだ。

携帯電話がそのままPCになる。外部モニタと外部HIDを繋ぎ、そのまま仕事ができる。PCがあった場所には、モニタとキーボードとマウス、そして電話のクレードルしかない。

クレードルに挿すと、もう普通のPCとして扱える。仕事もゲームもそれで充分な速度がある。

電話としても普通に使え、喫茶店では小さな持ち歩き用のコンパクトキーボードを繋いで使える。

コンピュータを使わない一般人は、普通にそれを携帯電話として使う。

そんな未来のマシン像が、D4から見えたのである。

もちろんそんなマシンが実現したときは、きっともうWindowsなど載っていないだろう。iPhoneのようにコンパクトなUNIXや、AndroidのようなLinuxベースになってるんじゃないだろうか。まだ見ぬ新OSかもしれない。

今のノートPCも、実際俺がそうやって使ってるのだが、フタを閉じたままキーボードとマウスとモニタを繋げて使える。それが携帯電話になるだけのことだ。そう遠い話でもないと思う。

IntelのATOMやAMDのGeodeがそれを後押しするだろう。本当に近い将来、パーソナルコンピュータは新しい段階を迎えるかもしれない。

(@384)

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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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