2008年02月05日(火) [過去の今日]
#1 著作権違反に罪悪感が無いのは、知財がわかりにくいからじゃね?
「まぢわかんない」「悪い大人を取り締まって」──携帯フィルタリングに未成年者の反応は (1/2) という記事。
ふーん、といった感想ではあったのだが、この記事に過剰反応してる方が散見された。おそらくその理由は、
「反対。モバで読んでる小説読めなくなりし、掲示板に行けなくなるんで音楽を取る(無料の違法着うたなどをダウンロードする)こともできなくなるし、好きな芸能人のブログも見られなくなるんでかなり迷惑です」(未成年女子)
この部分だろう。違法音楽のダウンロードにまったく罪悪感が無いというところに、反応されてるのだと思う。
で、俺はこれ見てどう思ったかというと、「ああ、やっぱそんなもんだよな」というのが感想。
著作物が誰かの所有物で自分たちはその「使用権」だけ買ってるんだ、なんて概念、普通わからねえよなあ、と。
「いやわかれよ」と言う意見も至極もっともなのではあるが、はっきりいって理解しがたい話なのではある。
ダウンロードにはコストがかかる。携帯電話じゃパケット料金や時間もけっこうかかる。彼女らは「タダで手に入れてる」という感覚は無いと思う。言わば山にいって花をつむような感覚で、「音楽を取って」いるのだろう。
別の言い方をすればこうだ。レシピを拾って来て料理を作る。「そのレシピには権利があってただでその料理を作っちゃいけないんですよ」。そう言われてるのと大差無い感覚なのではないか?
すこしSFになるが、スタートレックのフードプロセッサを思い出してみよう。わからなければドラえもんの「グルメテーブルかけ」と同じものだと思えばいい。
あれは登録しておいた料理がいつでも取り出せる。材料はそこらの空気中やプランクトン(は違う道具だっけ?)から集めて来て生成され、事実上コストゼロで無限に料理が出てくる。
そんなものが小さい頃から目の前にあって、中高生になって「料理には権利があるんだ。ただで料理が出てきたとしても、権利者にお金払わないとね」なんて言われて納得いくだろうか。
はっきり言って知財はわかりにくい。それでも否応なしに未成年や一般市民を巻き込んでしまうのが著作権だ。
そしてもっと言うなら、著作権は「著作者のわがまま」を権利化したものだ。
いや、権利なんてものはたいてい権利者のわがままを法的に実現したものに過ぎないのではないのか? だからこそ権利と義務が表裏一体なのではないのか?
そう考えたとき、著作権者にどれだけの義務が課せられてるだろうか。
売れない本は再販されない、作り続ける義務も無い。しかし次々と未成年や一般市民を巻き込んで権利を──わがままを主張する。
そんなことが許されていいのだろうか。
同じことを考える人もいらっしゃる ようだし、俺も健全な市民感覚だと思う。
著作物はそのほとんどがデジタルデータ化可能 *1 であり、デジタルデータは事実上無限にコピーが可能だ。フードプロセッサやグルメテーブルかけが実現された時代の食料と同様、「事実上コストゼロでいくらでも生産できる」代物なのだ。
そこかしこで言われてるが、著作物は今その「コピー」を制限することで商売を成り立たせている。ユーザーが自由にコピーできる手段が目の前にあるのに、「それをするな」と言うことで商売を成り立たせている。
言わば消費者の恩情によって飯を食わせてもらってるわけである。
そして食料と違って、著作物は 無くても生きていけるものだ。当然優先度は低い。
ソフトウェアの世界では、オープンソースという概念でパッケージ販売からサービスへの移行が進められようとしている。コピーをいくらされても商売が成り立つ仕組みの模索だと、俺は受け取っている。
音楽やその他の大衆文化はどうだろうか。命を削って作り上げた作品に思い入れがあるのは当然だろう。簡単にコピーされて不愉快だと思うのも当然だろう。
しかし、その「簡単にコピー」を前提にして考えるということは、一切無いのか?
「簡単にコピー」できるからこそ、違うことができるんじゃないのかと、俺は思うのである。
(@117)