狐の王国


2007年09月27日(木) [過去の今日]

#3 そういえば「大和魂」という言葉を聞かなくなった

ふと、吉田松蔭の辞世の句を思い出した。実はけっこう好きな句で、はじめて見たのは確か、武田鉄矢・小山ゆうの お〜い!竜馬 であったか。

お~い!竜馬 (第1巻)

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

この和歌で最も重要なのは、やはり「大和魂」という言葉だろう。この言葉の意味がダイレクトに伝わってこなくては、歌の意味がさっぱりつかめない事になる。

ただ、正直言うと、今の自分がこれを見ても、大和魂の言葉が伝わってこない。

昔は「大和魂を忘れるな」という感じで自己を保つ芯のようなものとして使われていたと思うのだが、今の日本人には日本人であるという意識が必要無いのだろうか。

Wikipediaの大和魂の項目 の記述が興味深い。

その後、大正・昭和と下るに連れて、日本のナショナリズム・民族主義が強まっていくと、大和魂の語には日本への強い意識が込めらるようになった。国家への犠牲的精神とともに他国への排外的な姿勢を含んだ語として、用いられたのであり、大和魂が元々持っていた「外来の知識を摂取して、柔軟に応用する」という意味と正反対の受け止められ方をされていた。こうして、大和魂の本来の姿を見失った日本は、第二次世界大戦で亡国寸前の敗北を喫することとなった。敗戦後、大和魂の語は軍国主義に結びつくものとして忌避される傾向にあり、また、本来的な意味に着目されることも少なくなった。

なるほど、確かにそうやもしれぬ。

そもそも勇猛たらんとするには、今の時代は危険すぎる。勇猛な者ほど早く命を落す。事件に巻き込まれる。

日本人は第二次世界大戦で戦うことの愚かさを学んだ、と俺は思っている。戦わないことの素晴しさ、平和を愛する心というのは、確かに重要だと俺も思う。

だが、かといって戦う覚悟が無くていいというわけじゃない。江戸時代の武士たちは、太平の世の中で堕落していったわけじゃない。常に自分を鍛え、いざという時には腰の刀を抜く。そういう覚悟があるからこそ300年もの平和を保てたのだろうし、明治維新によってその後数十年であっという間に世界の5大国に数えられるようになれたのだろう。侍という存在に世界中の人々が魅了されるのも、そういう所があるからではないか。

「大和魂」という言葉は死語になったかもしれない。だが、それが表す日本人の美徳は、まだ我々の中にある。もう一度「大和魂」を見つけ直し、日本人の矜恃というのを取り戻す必要があるんじゃないだろうか。

それは何も武力の話だけではなく、漫画やアニメ、工業製品、ひいてはプログラミングにだって言えることじゃないか。

英語が重要だという話をすると、「母国語を捨てて英語になればいいとでもいうのか」みたいな反応を返す人がいる。それは大和魂の欠落を意味してるのだと、俺は思う。

たとえどれ程外来の知識や技術や言葉を身につけようとも、自分は自分、日本人は日本人であることに変わりは無い。どこにいて何をしてようと、自分が自分であることを思い出させてくれるもの。それが日本人にとっての大和魂なのだと、俺は思うのだ。

(@910)

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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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