2007年09月26日(水) [過去の今日]
#1 猛烈な数の意見をもらうということ
何年もこうして日記を書いてると、ときおりものすごい数の意見をもらうことがある。実にありがたい事だと思う。おかげで俺の思考は深まり、知識は増大していく。脳味噌がどんどんやわらかくなっていく。そうして得たものは、日常生活や仕事の中に活かされている。こんな素晴しい機会を得られるなんて、夢にも思わなかった。
そういう大量の意見がもらえるのは、リンクしてくださる個人ニュースサイトのみなさんの力が非常に大きい。リファラを見る度に感謝の気持ちでいっぱいになる。おもしろいと思ったから載せただけ、と言われるかもしれないが、そう思って頂けるならなおのこと嬉しい。
そういった広めてくださるサイトを中心に、増えたインターネット人口、はてなブックマークのようなコメントを書きやすい場所の出現とあいまって、本当に何十何百という人の意見を頂けるようになった。なんともありがたく、嬉しい時代になったものだ。
しかし、そうなると、ある程度確率の話になる。
ある一定の割合で、文章が読めてない人が現れる。読み違えたまま怒ってたりする。自分の文章力が足りないのかとも思うが、どこをどう読んだらそうなるのかさっぱりわからない事も多い。
ある一定の割合で、あんまり別の角度からの意見すぎて無関係な話になってる人がいる。もちろんそういう見方も必要なんだろうけど、それまで一緒に語ると本当に別の話になってしまう。
もちろん同じように、一定の割合でうなずいてくれる人、すばらしい批判をくれる人、はっとさせられる意見をくれる人たちもいる。
それらは俺のエネルギーになり、また深く考え、またそのうち記事を書くときに俺に大きな影響を与えてくれる。
そこではたと思うのだ。「すばらしい批判・はっとさせられる意見」と、「読み違えてる人・別の角度すぎる人」を、俺はどう見分けてるのだろうかと。
もしかして見分けまちがいをしてるんじゃないかと。
昔は頂ける意見自体が少なかったから、そんなことを考えることも無かった。だいたいひとつのサークル内であったりコミュニティ内であったりして、その小さな世界の合意に合致してるかどうかという程度の意見しかもらえなかった。だからいろんなコミュニティと繋がってる「ちょっと顔の広い人」は、それなりに深い知見を持っていた。そういう人に確認を取って、自分の判断を補強できた。
でも、今はそういう「ちょっと顔の広い人」なんかよりずっといろんな人から意見をもらえる。まだ「インターネットユーザー」という属性の偏りが多少残ってはいるが、それも日に日に薄まっている。
そうなるともう、頼りになるのは自分の嗅覚だけだ。でもその嗅覚が正しいなんて誰も保証してくれない。
だから俺は「これは違うなあ」とか「違和感があるなあ」と思う意見も、とりあえず「自分の中に入れる」という事をする事がある。その違和感はくすぶったままで、たいていはすぐ「忘却」によって消えて行くのだけども、たまにその違和感が新しい何かを生み出してくれることがある。
そのために、やはり一度は「自分の中に入れる」というのをずっとやり続ける必要があるんじゃないかとも思うのだ。多少、消化に時間がかかったとしても。
(@054)