狐の王国


2007年07月12日(木) [過去の今日]

#1 はてなスターで甦る高橋名人の想い出。

子供の頃、ファミコンブームというのがあった。秒間16連打を繰り出す高橋名人が、ヒーローだった。

俺は素直にヒーローに憧れちゃうタイプだったので、さっそく連打練習をした。鉄アレイを手に縛りつけ、腕を痙攣させた。

そのうち秒間15連打を謳っていたジョイボールより速くなった。すわ16連打かと思ったが、そこまでは行ってなかったらしい。

だが、この身につけた連打能力は周囲でもナンバーワン。いまだに連打で自分より速い人に出会ったことは無い。

……まあ今は連打機能ついたパッドがいくらでも転がってるしね。

そこで登場の はてなスター である。このサービスは、おもしろかった記事に星を付けることができる。クリックすると星がひとつずつ増えて行く。

もうお気づきだろう。そう、マウスボタンを連打するともの凄い勢いで星がだだだーっと増えて行くのである。楽しくてしょうがない。

というわけであちこちのはてなダイアリーの星を連打しまくり、うっかり数百とか増やしてたりする。俺は非常に楽しいのだが、増やされた方はどう思うんだろうか。

(@347)

追記:動画もつけてみたよ! わかりにくいけど!!:

ちなみにこの連打をしたあと、マシンがしばらくかたまりました(汗)

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#2 「雨ニモアテズ」というパロディ詩に見る今の子供たち

現代っ子にぴったり? 「雨ニモアテズ」宮沢賢治の故郷で発表 という記事。この詩をとりあえず全文引用してみよう。

雨ニモアテズ 風ニモアテズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ
ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ
意欲モナク 体力モナク
イツモブツブツ 不満ヲイッテイル
毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ
朝カラ アクビヲシ  集会ガアレバ 貧血ヲオコシ
アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ
作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ
リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ
東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ
西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ
南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ
北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ
日照リノトキハ 冷房ヲツケ
ミンナニ 勉強勉強トイワレ
叱ラレモセズ コワイモノモシラズ
コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ

記事によれば、小児科の医者が「まさにぴったりだと思った」とのこと。本当にそうだろうか?

確かに俺にもこういう子供に心当たりがある。もちろん全員がというわけじゃないが *1 、確かにそういう子供が多いのだろう。

だが、同時に俺はそういう子供も含め、産まれたばかりの頃から見てもいる。 そういう経験から言わせてもらうと、3〜4歳くらいまでの子供ってのはみんな、好奇心旺盛で元気でよく遊んでいたずらっ子。この詩に描かれるような子供像はありえない。多少の個性はあるものの、だいたいみんなそんな感じだ。

しかし、その年齢を過ぎて行くと、だんだん様子が変わって来る。親や友達やテレビの真似が身について行く。そう、環境に適応して行くのだ。 この詩で描かれるような子供になるのは、小学校にあがってからだと思う。

そんなに大量の子供を見てるわけではないのだが、小学校にあがってからの子供は、だいたい2つに大別できるんじゃないだろうか。

自信を身につけた子供は強い。好き嫌いを遠慮なくはっきり言う。時には人を傷付けて遊ぶこともある。本人はそれを自覚してない事が多いように思う。活動的かというとそうではなく、やりたくない事は「やだ、めんどくさい」とはっきり拒絶する。おもしろくなると積極的に動く。

自信を失った子供は、逆に口をつぐんでいく。口数が減り、自己主張をしなくなる。ただ環境に流されていて、自分から行動しようとはしない。とにかく責任逃れをしようとする傾向が強く、問題が起きるのを自分のせいにしたくないという理由で見過ごそうとしたりする。

こういう子供になっていくのは、もちろん環境のせいだ。詩は「こんな現代っ子に誰がした」と締めくくられてるが、したのはもちろん周囲の大人たちだ。この詩を書いたというどこぞの校長自身も、それに荷担してるはずなのだ。

子供だってそれなりの知能がある、一人の人間だ。つまらないことはやりたくないし、おもしろいことは自分からやろうとする。ちょっとしたことで自信を身につけたり失ったりする。他人に優越したいという欲望がある。

作業をぐずぐずやるとこぼす前に、その作業をやることで誰かが喜ぶ姿を見せたのか? 公園でボールを蹴っ飛ばす楽しさを教えてやったのか? 外にあるおもしろいことを、見せてやったのか? いたわる心が無いと言う前に、子供をいたわってやったのか?

それをしてやる大人がいなければ、そりゃそういう子供にもなるだろう。

まあわからんでもない。今の時代で生きてくためには、子供との関わりが薄くなる程働かなければならない事情もあるだろう。だから賢い人ほど、子供を産まなくなっている。

だがどうにかしなければいけないのは間違いないだろう。子供との関わりを増やし、子供に愛情を注ぐ時間を作っていかなければいけない。

やれない理由なんてどうせいくらでも出てくるから言わなくていい。大事なのは、どうやったらできるかだ。

自分の子供はいない俺だが、一緒に考え、実行していきたい。

(@850)


*1: あたりまえの事なんだが、こう書かないと「全員がそうなわけじゃない!」とかいってごく少数の例外を出して来る、というパターンな人がいるので……。せちがらいよなあ、ネットの世界も。
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2007年07月13日(金) [過去の今日]

#1 はて☆すた登場で俺の時代がやってきた

はてなスターで付けらてた☆をグラフ化するサービス という記事をみつけ、思わず連打。もちろんいつもの 高速連打

んでその結果がこれ。

はて☆すた勝利の図 544stars

なにこの 圧倒的な勝利感

いやー、 はて☆すた 楽しいなあ。

(@471)

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2007年07月14日() [過去の今日]

#1 ガンダム好きにボトムズとイデオンが必須なのか?

岡田斗司夫のガンダム芸人酷評 という記事。かのオタキング岡田斗司夫がガンダム芸人は偽者だと酷評してるというお話。

土田の部屋はガンダムグッズだらけらしいが本当にガンダムが好きだったら何故ボトムズやイデオンに行かないのか、ガンダム好きならSEEDがそんなに好きなはずが無い、と言い切るオタキングはホント面白いな(´ー`)オタキングの言うように確かにリアルタイムで見てればガンダム的なものを求めてその後に続くザブングルやダンバインにも夢中になるはずだ。

はて? そうだろうか?

俺はガンダムは本放送、再放送、再々放送と見ている。本放送時は小学校にもあがってなかったのだが、印象深いお話が多かったのでよく覚えている。特にカイ・シデンとミハルのお話は、子供心にトラウマのように突き刺さった。人の死を身近に感じる恐怖は、今でも忘れられない。また、主人公がほとんど出てこない回というのも目新しく、ものすごく興奮して見てたことを覚えている。

が、その後ビデオや後続のガンダムシリーズはまったく見ていない。ボトムズもイデオンもダンバインもザブングルも見ていない。それどころか映画版すら見てなかった。

どうもガンダムの紛い物という感じがして、後続シリーズはまったく見る気になれなかったし、GガンダムやガンダムWに至ってはもはや何者だという感じ。

やはりファーストが好きだからこそ、そんなものは見たくなかったのである。

一応嫌ってばかりじゃいけないかなとΖだけは15年ほど前にビデオを借りて来て見てはみたが、そんなにおもしろいとは思わなかった。ΖΖも見ようとは思わなかった。俺はカミーユが見たいんじゃなく、アムロとシャアが見たいんだと、強く思った。WやXはちょうど暇な時期だったのでちらちらとは見てたけど、やっぱり紛い物という印象しかなかった。

そういう思いが変わったのは、ふと∀ガンダムを見てからである。

∀ガンダムはおもしろかった。素直におもしろいと思えた。そして終盤で明かされる「黒歴史」の正体。

ああ、富野はすべてのガンダムの名を冠する作品群に、これで完全に決着を付けたんだな、と思った。富野自身の失態もあったろう、手が離れて意味不明のものになっていったものもあったろう。だがそんなものはすべて黒歴史のうちの事なんだ。

そう思ったら、もう気軽にガンダムモドキたちを見ることができるようになった。0080も見た、0083も見た、ΖΖも見た、08小隊も見た。新訳Ζは映画館で見た。SEEDだって、黒歴史のうちのことと思えばどうということもない。そのうち時間を作って、VやWやGやXも見ようと思ってるし、秋から始まる00もたぶん見るだろう。

こうして俺は「ガンダム芸人」程度の知識は蓄えたガンダムファンになった。

だからボトムズにもイデオンにも行ってない。それは経路に無かった。

これは俺の事例でしかないが、そういうガンダムファンは非常に多いと思う。子供の頃夢中で見てた大好きなガンダム、大人になって続編を知り、一気に見て情熱が再燃。そういうパターンは少なくないと思うのだ。

それを後天的ガンダムファンだとか優越感ゲームされても困る。 俺たちだって、ガンダムが好きなのは変わらないと、信じたい。

(@176)

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2007年07月16日(月) [過去の今日]

#1 ステルス広告と強制視聴広告はどちらがマシだろうか

フジテレビ、自局前での丸川珠代の演説に激怒 「聞いてない」「ここでやるなら自殺する」「ホント迷惑だ」 という痛いニュースの記事。 この記事は選挙演説のウザさについてだが、これを広告手法として捉えてみると、実に効果的なのだということに気付いた。

確かに選挙カーの演説はウザい。ホントにウザい。逆に投票したくなくなるくらいウザい。

が、こういう「強制的に聞かせる」というのは実はとても効果的なようなのである。

音楽の広告を思い出してみよう。あれはTVやラジオなどでがんがんかける事で、街や茶の間にその音楽を強制的に流させる広告だ。そうやって曲自体の認知度を高めていく。「知ってる感」を感じさせていく。

そしてそれが実際にヒットに繋がって来たではないか。

テレビのCMもそうだ。CM中にチャンネルを変えさせない技法がどんどん発達して来た。視聴者もめんどくさくなって、なんとなくCM明けをぼーっと待つ。その間に強制的にCMを見させる。

そうすることで、商品を選ぶ際、「なんとなく知ってる」という「知ってる感」のある商品を選びやすくさせているわけだ。

みんな名前も聞いたことも無いような物を買うよりは、テレビやCMで名前くらいは聞いたことのあるものを選ぶ。知らないメーカーより知ってるメーカー、知らない商品より知ってる商品なのだ。

特にこだわりが無く、どれを買っても大差無いようなジャンルなら余計そうだ。

だからウザかろうがなんだろうが、目立つところで大量の人間に「強制的に視聴させる」広告が無くならない。

対して、最近問題視されてる ステルス・マーケティング という広告手法がある。これは「強制視聴広告」とはまったく別のもので、日常の中に広告を埋もれさせる。広告を受けた消費者は、それが広告である事にすら気付かない。

具体的には アメリカの口コミマーケティングは恐ろしすぎるwww という記事に詳しい。

喫茶店でゲームに興じて、誰かが興味をもったら実際にやらせてみる、というゲームのステルス広告。「写真撮ってもらえますか」とカメラを渡し、撮影してもらうというカメラのステルス広告などなどの事例が紹介されている。

もちろんアルバイトを雇い、「ユーザーに体験させる」技術を身につけさせ、街に送り込むのである。

確かにこれならさほどウザくもない。街を歩くたびに写真撮ってと言われたらウザくもなってくるが、さすがにそこまで大量のアルバイトは雇えまい。

しかし、口コミを装った広告というのもいかがなものか、という気はする。

だが、どちらにせよ、商品には宣伝が必要だ。どんな良質の商品でも、広告を打たねば知ってすらもらえない。口コミで広がるのを待っていたら、その前にお金が途絶えて商品を売り続けることもできなくなるだろう。

だから広告を無くす事は、この問題が解決しないかぎりは無理だろう。結局広告はどこかに現れることになる。 広告の存在自体が苦痛 などと言う人もいるようだが、その広告があることによって得られる消費者の利益もあるのだ。あたりまえの事だが、広告無くしてテレビの無料放送はあり得ないし、ウェブサイトも広告で持ってる所がたくさんある。

そういうわけで、結局我々消費者は、ウザい広告か口コミ偽装広告かを選ばなくてはならないわけだ。

さあ、あなたは「強制視聴広告」と「ステルス広告」、どちらを選びますか?

(@300)

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#2 匿名議論は実名議論よりも質が高いのだろうか

某mixiの某コミュニティで、くっだらない罵りあいが炸裂してる。読んでるだけで頭痛がしてくるレベルで、コミュニティ管理者に「いい大人が何やってんの」的発言をされる始末。それでもくだらない罵りあいがやむ気配は無い。

基本的にmixiは実名のはず。少なくとも表向きはね。参加者それぞれがプロフィールページもあるわけで。

なのにどうしてこんなくだらない罵りあいになるのだろうか?

ふと 2ch に目を向けると、匿名同士の罵りあいが目に入る。しかし、そのうち詭弁のガイドラインを貼る奴が現れたり、情報をまとめる奴が現れたりと、さらにそれを下地に議論が進んだりと、罵りあいながらもいつまでも同じところをぐるぐる回ってたりしない。

もしかして、匿名議論のほうが実名議論よりも質が高くなりがちなのだろうか?

確かに匿名のほうが無責任に情報をまとめたりコピペしたりはしやすいわけで、それが議論を上向かせてる面はある気がする……。

実際のところはどうなんだろうなあ。

(@469)

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2007年07月18日(水) [過去の今日]

#1 新手の宣伝手法、最終兵器「和田アキ子」

いやこれは参った。いろんな広告が世の中にはあるが、こんなの見たこと無い。んでもってすげーおもしろい。

暇なので和田アキ子を飼い慣らしてみる という記事で見つけたブログパーツなのだが、ホント笑える。

公式サイトから引用するに、

  1. 頭 頭のてっぺんあたりを撫でると喜びます。
  2. 眼 右目を撫でると落ち込みます。
  3. 口 口を触るとキス顔になります。
  4. 耳たぶ 耳の下のほうを触ると怒り出します。
  5. 耳の上 耳の上部を触ると「ハッ」の表情になります。
  6. のど のどを触ると眠ります。 
  7. 鼻 鼻を触るとびっくりします。

とのこと。いやはや、おもしろい時代になってきたものだ。

(@260)

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2007年07月19日(木) [過去の今日]

#1 CSS Nite騒動に見るオタクの多義性とそれによって傷つく者たち

まあ俺がこんなはじっこで何言っても始まらないだろうから、言いたいこと言っちゃっとこうかなー。

先に言っておくと、俺はイベントにはあんまし興味無いし、東京のウェブ業界界隈とも今のところ直接の関わりは無いので、俺には基本的に関係無い話。ようするに俺は部外者。

ネットウォッチの一環として傍観してたんだけども、1つ気になることがあってね。

と、このあたり見ると誰が誰に何を言ったのかわかっちゃうんだけどさ。

ねえ、そんなにオタク呼ばわりされんのイヤ? そんなオタクってキモい?

や、別に俺はオタクを自認してるからそう思うだけなのかもしれないけどさ。なんかちょっとムッっと来たんだよなー。

これに気付くまで、「id:amachangかっこいい! 大好き! 結婚して!」みたいなノリだったんだけども、なんかたまらなくなって、思わず記事書きはじめちゃった。

いやね、オタクとhackerって似てるんですよ。どっちも多義的で、人によってそれの意味するところが違う。下手すると同じ人が言ってても場面によって意味が違う。尊称にも蔑称にも使われるところも似てる。

だからオタク呼ばわりされてむかつくってのも理解はできるのね。

理解はできるんだけど、なんかやっぱ違う世界の人なんだろうなーというか、我々はid:amachangを傷付けた人にもid:amachang自身にも蔑視される存在なのだなーというか、まあそんな現実を突き付けられた気分? 何この感情? これが非モテってやつ?

まあそんなわけで、 id:amachangが嫌いな理由。 って記事もそのへんを遠回しに指摘した記事だったりするんかなーとか思ったりね。

そのへんはもうオタクの多義性のせいとしか言いようが無い気がするんだわ。誰がどういう意味でどういう時に「オタク」という言葉を使ったのか。その意味が正しく通じてたのか。実はまったく違った意味で言ってるのを全然違う意味で捉えてるなんてこともあるんじゃないのかとか。

まあでも、id:amachang氏の記事や作った資料はいつも楽しく拝見させていただいてるし、実際に仕事に役立った場面も多い。これくらいでid:amachang氏への敬愛の念が崩れたりはしない。

これからの活動も期待を持って待っている。今回みたいな騒動があったからってどうかなって欲しくない。ファンの一人としてね、素直にそういう気持ちがある。

こんなウェブのはじっこで何言ったところで届いたりはしないかもしれないけども、まあ群集からの応援の声としてね。受け取ってもらえれば嬉しいかな。

(@063)

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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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