2006年11月17日(金) [過去の今日]
#1 DVD対応Wii
engadget japaneseの記事 で、どうやらDVD再生に対応したバージョンのWiiが開発されてるらしいとのこと。
うーん、これは悩むな。たぶんWiiはそのうち買うと思うんだけど、DVD再生できる奴のほうがいいような気もするなあ。まあ来年後半まで待つってのもアレだし、買う機会がそこまで遅れたら、でいいか。
(@082)
#2 ホモとゲイ
かえって失礼な翻訳 という記事を読んだ。
うーん、感覚的に理解はできないんだが、
ここまで読んでもぴんと来ずに、「『ホモ』も『ゲイ』も大差ないじゃん。何が悪いの?」と思ってる方のために、もっとわかりやすい例を挙げておきます。
「あいつは俺をジャップと呼びやがった!」
「ジャップと呼ぶなんて、ひどい侮辱だ」
「あいつは俺を日本人と呼びやがった!!
「日本人と呼ぶなんて、ひどい侮辱だ」上の会話と下の会話では、意味が違うでしょう? それと同じことですよ。
まあ、こう言われると「ホモ-ジャップ」、「ゲイ-日本人」という対応式が頭の中にできてなんとなく失礼なんだな、というのはわかる。
が、ちょっと気になって調べてみると、「ホモ」というのは homo-sexsual の略であり、そもそも homo というのはギリシャ語で「同一(same)」を表す語のようである。
対してゲイは古期フランス語が語源で、「きらびやかな(gaiety, gaily)」という意味だそうである。
どう考えてもゲイのほうが水商売、あるいは見世物的な扱いから来てる語としか思えないし、ホモのほうが単純明瞭かつ中立的な言いまわしである。なのに差別的とされるのは「ホモ」のほうなのだ。実に不思議である。
別に「ホモ」と呼ばれて差別的だと感じる感性を批判しようというわけじゃない。ただ、差別的だと感じるかどうかは、その語の持つ意味とはここまで無関係なのかという事に驚愕しているのである。
こういう言葉のねじれは、けっこうそこかしこにあるのだろうなあ。結局差別的な意図を込めて発せられた語が差別語として認知されていくということかね。だとしたら言葉狩りにはまったく意味が無いな。ただ次の言葉が差別語として認知されて行くだけだ。
(@097)
@ 翌日追記:
よくわからないが、なぜか元ネタの人が 歴史的経緯を詳しく解説してくださってる のでリンクしておく。
一ヶ所勘違いしてたのは、古期フランス語が語源のgayという語を同性愛者の名称として使われ出したのは英語圏であって、すでに語源とは意味の乖離が始まってた時代だったというあたりかな。
#3 Firefoxにてバグっぽい挙動
#4 プログラム言語の覚え方
ふと気がつくと、いろんな言語を使ってる自分に気付く。最初はBASICだった。簡単なゲームを作って楽しんでいた。マシン語も少しやった。それからブランクがあって、Perlを使うようになった。
Perlにある程度慣れて来ると、PHPはすぐ使えるようになった。ついでにMySQLも使って、仲間うちでゲームのスコア表的なものを作ってみた。
仕事でJavaを書いてみたら書けちゃった。お客さんに作りたいものを具体的に話していただいてたので、それを具現化するだけだった。
興味本位でRubyもいじくってみた。文字コード判別ライブラリが見つからなくて、まずそれを自分で実装した。ちゃんと動いてくれて嬉しかった。後からもっといい実装があること知ったけども。
やっぱり仕事で必要になってJavaScriptもいじってみたらすぐ書けるようになった。
こう思い出してみると、言語を覚えたときというのは、その言語で実現したい何かがあったときだ。作りたい何かに向かってるとき、言語というのは意外にも簡単に頭に入って来る。どれもC言語を祖先に持つ同じ種類の言語だしね。
もちろん、それは高速道路理論 *1 のおかげだ。 プログラム言語の情報というのは、ぐぐればいくらでも出てくる。最近はソースコードサーチなんてのも出てきて、JavaScriptを書くときはけっこうお世話になった。IRCや掲示板など、迷ったときに導いてくれる先人たちとも繋がっていられる。実にありがたいことだ。
もちろん高速道路の先に渋滞があるというのは、プログラム言語でも同じ。その先は言語特有の機能や特性を理解して行くことになるんだろうな。そこまで行けば渋滞は抜けているはず。が、ついつい他の言語で遊んじゃうんだよね。広く浅くというのも、ひとつの手ではあるかもしれないけど。
そして次は関数型言語でもやりたいなあなんて思ってる自分がいる。lispやhaskelの仕事は無いだろうから、これで作りたいものを思い付かないといけないけどね。
(@338)
#5 大学で高校世界史
読売新聞の記事に 阪大が未履修者に“高校世界史”、一般教養で来春開講 というのがあるのを某のmixi日記で知った。
授業設置を提案した桃木至朗教授(東洋史)は、「5、6年ほど前から学生たちの世界史知識の急低下に危機感を持ち始めた(中略)世界史を知らない学生を社会に出すわけにはいかない。教育者の責務として取り組みたい」と話している。
なるほどねい。大阪大学には良心的な教授がいるんだな。
まあ、しかし本来やっとくべきことをやってないで大学にいる輩がいるおかげで余計なコストを強いられるってのは、どうなんだかね。MSIEの標準外の挙動のせいで余計なコストを強いられてるウェブデザイン業のようなやるせなさを感じるな。それでもやらざるをえないところも……。
やらざるを得ないとはいえ、やらない大学の方が多いのだろうけどね。
そもそも世間というのは、勉学した人間より経験を積んだ人間を重んじる傾向がある。日本国内だけのことかもしれないが、それにしてもそういう傾向があるのは事実だ。
実は日本はぜんぜん学歴社会じゃないんだよね。どこで見たか忘れてしまったのだが、国別の学歴と所得のグラフがあった。日本では低学歴者と高学歴者の所得格差がもっとも少なかった。圧倒的と言っていいほどに。
結局学問より経験を重んじるからそうなるんだろうなあ。経験なんて所詮一人の人間の力でしか無いのにね。もちろん、理論と経験は相互に補完しあう関係であるべきだが。
(@375)
#6 メルカトル病
#8 スケープゴートといじめ
いじめの政治性 という記事を読んだ。
いじめられっ子とタリバン等を同じレベルで語っちゃうのはいかにも問題のすり替えっぽく見えるが、いやまあ実際すり替えだなあ、これは。
それでもスケープゴートとしてのいじめられっ子っていう本質は確かにその通り。三輪中の事件でも教員が一人の子をスケープゴートにしてクラスをまとめるという手法を用いてたのが原因でしょ? いや、こういう手法を使う教員は実はけっこういるんだけどね。スケープゴートには恨まれるが、スケープゴート以外のクラス構成員はみな教員を慕い、意志統一がはかりやすいので実に便利。もちろん副作用としていじめが発生するが、犠牲者は一人なので、そいつさえだまらしとけば問題なしという、教員にとっては夢のようなメソッド。実は俺もそういう教員が担任のクラスに配属されたことがある。
そう考えるといじめを無くすのは難しいってのはわかるわね。人はスケープゴートを求めてる。簡単にスケープゴートにされないために法律ってのがあるんだが、そもそも学校内ってのは事実上の治外法権だからな。 閉鎖空間と表現してる人がいる が、まさしくその通り。
要するに、教員がいつまでもいばってないで、きちんと警察の力を借りればいい。少年法云々いうなら保護者に罪を償わせればいい。自分の犯した罪で親が懲役食らえば子供も思うところくらいあるだろう。
スケープゴート化から守ってくれるのは、今のところ法律しか無いのだから。
(@990)