狐の王国


2006年03月01日(水) [過去の今日]

#1 Cインタプリタ

わは、C言語インタプリタか。おもしろそうなことしてる人がいるんだなあ。

(@410)

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#2 rubyのSTDINの読み方

ワンライナーでけっこう使うのでメモ。

$ cat ken_all.csv | ruby -e "require 'kconv'; print STDIN.read.toeuc.grep(/森ビル/)"

直接split()が使えないのは1行ずつ処理してるわけじゃないからなのかな。

(@416)

arrayか:

エラーよく見ればわかることだった。

$ cat ken_all.csv | ruby -e "require 'kconv'; print STDIN.read.toeuc.grep(/森ビル/).split(/,/)[5]"
-e:1: private method `split' called for #<Array:0xb7c4c9ac> (NoMethodError)

オブジェクトがarrayで渡されてるのでsplitメソッドが使えないと。

$ cat ken_all.csv | ruby -e "require 'kconv'; for i in STDIN.read.toeuc.grep(/森ビル/); print i.split(/,/)[5]+\"\n\" end"

まあ、こんな感じにやればよかったということですな。

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#3 社会の隅っこの崖っぷちからかろうじてぶら下がってしがみついていること

興味深い考察だ。若い世代のオタクが、供給過多のコンテンツの中で、何も努力すること無くオタクでいられる時代にいるんだというお話。

確かに思い当たるフシはある。俺のアニメオタクとしての始まりは、声優探しだった。あちこちのアニメのエンドロールを見て、何役と何役が同じ人だというのを発見するのが楽しかった。ガンダムのナレーションと波平さんが同じ人だというのが意外で驚いた。いつもシティハンターの名前の無い役をやっていた山寺宏一が、はじめて"銀狼"という名前付きの役にクレジットされて感動した。

こんなこと、今ではちょっとぐぐるだけですぐわかる。知ったときの感動、気付いたときの感動、そういうものは今は無いかもしれない。

しかしだ。それでも情報収集にはコストがかかる。考察には知恵がいる。ただ漫然と供給されるコンテンツに満足してるだけの人は、それはもうオタクではなく、ただの視聴者ではないだろうか。

オタクはオタクの誇りを持って生きていたいと、思うのである。決して既成品のフィギュアを集めて満足するような人間ではなく、本物のオタクでいたいと、強く願うのである。

(@478)

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#4 萌えとフェチ

おもしろい話だなあと思った。萌えはフェチの一派とという考え方と、完全に別個のものという考え方があるらしい。そういう視点で見たことが無いので、なかなか新鮮に感じた。

俺自身はアニメや漫画やゲームが大好きで某萌え系distroに関わってたりしているオタクであることは否めないが、実は「萌え」というものが自分の中にあまり内在してない。あまり、というのは最近なんとなくわかるようになって来たからだ。

もっと一般的な表現で言うなら「ぐっと来る」状態である。ここらへんがフェチと混同されやすいのであろう。だが、フェチが性的嗜好であるのに対し、萌えには性的嗜好がまったく内在されていない。

萌えと性的嗜好の関連について否定することはそれはそれで議論を呼ぶであろうが、これは事実であると断言せざるを得ない。なぜならこれを否定しないことにはフェチと区別が付かなくなるからだ。

オタク人たちをつぶさに監察して行くとわかるのだが、性的な指向を持たない事が意外に多い。これをもって病的とするかどうかはここでは語らない。ただそういう事実があるというだけだ。そして「萌え」というのは彼らの精神状態の発露なのである。

例えば、最近ロリコンが増えたという実感を持つ人もいるだろうが、これは半分正しく半分間違っている。本人たちも自覚してないようにも思われるが、彼らのうちの大半は実は小児性愛者ではなく、猫がかわいいというのと同様に子供がかわいいと思ってるだけなのである。そしてそのかわいいと感じたときの「ぐっと来る」状態、あるいはあまりのかわいさに「やられた」とうちのめされる状態を「萌え」と表現しているのである。だから少女と同様に少年に「萌え」ている人もいるし、そういう人たちが同性愛者ではないということも多々あるのだ。そしてインターネットにはそういううちのめされるようなかわいさを持った画像映像が多々転がっており、萌えられるチャンスはたくさんある。しかし、それらが本物のロリコンたちを刺激してる事は事実であろう。だから半分正しく半分間違っているのである。

「萌え」が性的嗜好を内在してない事は、フェチが身体の部品に繋がる嗜好であるのに対し、萌えが服装だけでなく行動に対しても存在する事からもわかる。例をあげれば「ドジっ子」である。ドジっ子萌えというのは「一生懸命やってるんだけどうまくいかない」という行動状態に萌えるものだ。これはオタク業界ではメイドが一生懸命働いてるけど裏目に出てしまっているようなシーンに代表されるが、もっと身近な例がある。幼児の行動だ。幼児は加減を知らずになんでも全力で取り掛かるが、たいていはうまくいかず失敗する。積木を積み上げようとするがうまくいかなくて、それでも頑張ってもっと少しでも高く積み上げようとする姿に「かわいい」と思った人は少なくないはずだ。だがそこに性的な思いが微塵でもあるだろうか? 普通は無いであろう。

それが「萌え」なのである。同様にうまくしゃべれない子供や、獲物と思い込んで一生懸命レーザーポインタの光を追いかける猫、寂しそうに佇む仔犬等々、実は一般人と共感可能な「萌え」はたくさんある。ポイントは性的嗜好から切り離されてること、そして事例を見ればわかるように下位の存在のかわいらしさである。

ここまで来ると、「お姉さん萌え」などの上位存在に対する萌えはどうなんだという反論が来るであろう。これは実は「萌え」ではなく「憧憬」であると考えられる。憧憬であると考えれば、男性アイドルに萌える女性や、ごつい機械への萌えも説明が付く。この憧憬と萌えの混同は実は自然なものだ。なぜならメジャーな萌えに「妹萌え」というのがあるが、オタク全部が妹的下位存在をかわいらしいと感じるわけじゃない。どちらかというとお姉さん的な女性が好きだという「憧憬」を持った人もいるはずで、その「妹萌え」の対称として「お姉さん萌え」という言い方をされたことは想像に難くない。そういう中から憧憬の感情も「萌え」と表現されるようになったものと推測される。 *1

また、もう一つの問題として「メガネ萌え」「猫耳萌え」などのパーツ萌えがあるが、これは憧憬からの変換である場合と、そのパーツを装着した際の単純なかわいらしさである場合があるだろう。どちらも厳密な意味での「萌え」ではないはずだ。

こうして見ると、萌えというものの複雑さが感じられる。厳密な意味での萌えは下位存在のかわいらしさである事は述べたが、萌えという言葉の普及により「憧憬」と単純な「かわいらしさ」の表現として使われるパターンもまた増えたわけだ。これらを総合して「萌え」と解釈すると、やはりフェチと混同されてしまうだろう。しかしばっさり切り捨てるには普及しすぎた使い方とも思える。しかし、やはり一度は切り離して考えなければならないものだと思うのである。

(@760)

萌えテイストのエロという存在:

性的嗜好と切り離された萌えではあるが、萌えテイストのエロというのは存在する。本来性の対象ではないようなかわいらしい存在でエロをやってしまうというもので、これはこれで一つの大きなジャンルを形成している。妙に幼く見える絵柄のエロ漫画などがここに該当するはずだ。そういう絵柄はアニメ絵に広く見られるので、そのような絵柄の作家がエロ漫画を書くとそういうジャンルに入ることになる。この部分への俺の考察はまだまだ甘いものであり、はっきりしたことは言えないが、「本来ありえないこと」というあたりにヒントがあるように思える。


*1: 別解として、「兄姉という上位存在にかわいがられる弟妹という下位存在」というシチュエーションそのものに萌えているという解釈も可能である。弟妹のかわいらしさが、兄姉の良さを引き上げ、結果としてそちらに好意を持つという段階的な萌えである。
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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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