狐の王国


2004年10月11日(月) [過去の今日]

#1 多メディア時代でも「新聞必要」92%…読売世論調査

そんなに必要かなあと思ってよく読むと、

「必要だ」という理由では、「好きな時に好きな場所で読める」69%がトップだった。

なるほど、じゃあ京ぽんで解決じゃん。非モバイラーな人がけっこうことか、携帯電話のサービスが悪いということか。

(@711)

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#2 的を得る

最近2chなんかで煽りネタが無くなって来たのか、かなり無理のある煽りをする者がいる。とりあえず血液型がA型を差別してみるとか、すでに浸透してる表現を語源に照らし併せてこざかしく間違いを指摘するなんてのもある。

そういうこざかしいなあと思っていた間違ってる表現とされるものの中に「的を得る」というものがある。たまたまチャットで 漂泊する思考空間というblogの記事 を紹介してもらい、「的を得た」という表現が正しいという 中谷臣氏の主張(リンク先下部) を見て、再考の機会となった。

正直、的を得て何が悪いのかわからなかったのだが、「正鵠を得る」が語源であるという話を上記リンク先より知り、「正鵠」という言葉を調べてみた。 goo国語辞典 によれば、

せいこく 0 【正▼鵠】

〔「礼記(中庸・射義)」。「せいこう」は慣用読み〕
(1)的(まと)の中央の黒点。くろぼし。
(2)ねらいどころ。急所。要点。
──を射(い)る
物事の急所・要点を正しくおさえる。正鵠を得る。正鵠を失わず。

とあり、

の二つが見て取れる。

さあ、ここで問題だ。「的」を「得る」のは間違いなのに、どうして真ん中だけ「得る」であってるの?

「的を射る」の語源は見付からなかったが、中谷氏の言うとおり「正鵠を得る」から来てるとするなら、確かにむしろ「的を射る」のほうが間違いだろう。別に的は射ても得てもいい。日本語としてどちらも意味が通っている。どちらかが正しくどちらかが間違いだということがそもそも間違いで、両方ありだと考えるのが妥当であろう。

そもそも、表現の成り立ちを想像してみるといい。「正確に的を射抜いたような意見」というように、意見の妥当性を射的にたとえたのが始まりだと思われる。それが縮まった時、縮めた人は二種類いただろう。「的を射る」と表現した人と、「的を得る」と表現した人とだ。この時点ではどちらも間違いではない。的は射ても得てもいいのだから。それが広まり慣用句となったとき、どちらが浸透したのだろうか。恐らくどちらも浸透したのだろう。正直なところ、俺は「まとをいる」と発音する人を知らない。俺の知ってる人はみんな「まとをえる」と発音している。栃木県なので、「い」と「え」の発音の区別が付きにくいのもあるだろうが。

そう考えたとき、はたと思うのは「誰が『的を射る』が正しいと主張したんだろう」ということだ。どちらも日本語として正しいのに、慣用句になった瞬間一方だけが正解になる。そんなおかしなことがあるだろうか。

今では文化庁まで「的を得る」は間違いだと言い出している。「間違いだらけの正しい日本語」は、どこまで進むつもりなんだろうか。

(@914)

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Sugano "狐志庵" Yoshihisa(E) @ 美紗緒ネットワーク <koshian@misao.gr.jp>
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